歴史の中の僧俗
  
四 条 金 吾 2
  
 大聖人の主治医

 建治三(一二七七)年の『中務左衛門尉殿御返事』には、大聖人が四条金吾に対して御自身の病状を報告された様子が記されていることから、金吾は現在で言う、大聖人の「主治医」の役割を果たされていた、と言えます。
 大聖人が四条金吾に与えられた御書を拝すると、大聖人が体調を崩された時期が判明します。また主君・江馬氏の金吾に対する信用が回復したきっかけも、疫病にかかった主君の治療に当たったことに端を発するものでした。
 金吾の医術は、大聖人のみならず門下にも発揮され、富木常忍の夫人をはじめ、多くの僧俗の治療に当たっていたことが御書中より理解されまず。
 四条金吾の医術に関する記述として『四条金吾殿御返事』に次のような一文があります。
「ちごのそらうよくなりたり、悦び候ぞ。又大進阿闍梨の死去の事、末代のぎばいかでか此にすぐべきと、皆人舌をふり候なり。さにて候ひけるやらん。三位房が事、さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用ゐまじく候なり」(御書一三九二)
 この御文を現代語訳しますと「稚児の病気もだいぶよくなり、心から喜んでいます。また大進阿闍梨が逝去された件については、末代の名医もあなたには及ばないだろうと、皆、舌を振るって褒め称えています。私もその通りだと思います。三位房のことや、さう四郎のことも、全く割符を合わせたようだと語っていました。私の死生を、あなた(四条金吾)にお任せします。今後、私は全く他の医者に頼むつもりはありません」との意が拝せられます。
 これは、大聖人のもとにいた稚児が病気を発症しましたが、四条金吾の処方した薬によって快復したことを知らせた内容と推察できます。また大聖人が、いかに金吾の医術に信頼を寄せられていたかが解ります。特に「日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用ゐまじく候なり」とあるように、大聖人の御病気に関する一切を金吾に委ねられているほどです。
 ところで、四条金吾には数多くの功績がありますが、御書を拝していくと、大聖人の御化導における重要な局面のほとんどに四条金吾が関わっていることが解ります。
 まず四条金吾は、文永八(一二七一)年九月十二日の竜口法難における「発迹顕本」の場に居合わせたことが挙げられます。『四条金吾殿御消息』には、
「日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給ふ」(同四七九)
と仰せのように、決死の覚悟で大聖人に随従しました。大聖人と共に死を覚悟した四条金吾の信仰を、大聖人は生涯忘れぬ思い出として、たびたび述懐されています。一説には、大聖人が佐渡に配流されたことを受け、同僚の制止を振り切って佐渡に駆けつけた、との伝承もあります。
 次に、人本尊開顕の書である『開目抄』をはじめ『四条金吾殿御返事』と宛名された多くの御書があるように、重要な御書を数多く賜っています。特に弘安二(一二七九)年に駿河国で勃発した熱原法難の際には、
「世は二十七年なり」(同一三九六)
と、出世の本懐について記された『聖人御難事』を与えられており、四条金吾が熱原法難においても三烈士を中心とした法華講衆を励ました姿がうかがえます。
 大聖人の御真筆御本尊のなかに、弘安三年二月一日の「俗日頼」授与の御本尊が現存しますが、これは四条金吾への授与とされており、弘安五年に大聖人が身延を下山される際にも同行して御化導の最後まで常随給仕の誠を尽くされ、大聖人の葬送の記録にも名前が記されています。

 主君からの迫害

 このように、門下の中心的な立場にあったが故に、金吾に対する迫害は、かなり大きいものであったことがうかがえます。
 建治三年、金吾は主君の江馬氏の勘気を被り、蟄居および領地の没収という窮地に立たされました。その直接的原因は、大聖人の弟子であった三位房と共に当時、鎌倉で評判であった竜象房を破折したことに起因しています。その報告を受けた大聖人は、江馬氏への陳状である『頼基陳状』を送り、さらに『崇峻天皇御書』をはじめ、事細かな御教示を与えて万全を期されています。
 その背景としては、四条金吾は自らが仕える主君に対し、果敢に折伏を実践された事実があります。御書に見えるだけで、文永十一年ごろから始まり、実に五年にわたって折伏を敢行されています。これにより主君からは遠ざけられ、金吾の重用を嫉妬する周辺の同僚からは命にも及ぶ襲撃を受け、さらには大聖人を憎む極楽寺良観等の謀略も相まって、所領没収の危機にさらされました。
 しかし金吾は、師匠である大聖人の御指南通りに、何があってもくじけることなく信仰に励み、ついには再び主君の厚い信頼を取り戻しました。弘安元年には勘気を解かれただけでなく、『四条金吾殿御返事』に、
「かの処は、とのをかの三倍とあそばして候」(同一二八六)
とあるように、それまでの三倍の領地を受けるという功徳の実証を示しています。

 四条金吾の信心に学ぶ

 四条金吾について『四条金吾殿御返事』には、
「法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さへ流す、況んやよき名をや。何に況んや法華経ゆへの名をや」(同五九九)
と仰せられ「大信力を出だして、法華経の四条金吾と日本国中の人々に知られるほどの面目を上げなさい」と金吾の信心を励まされています。
 また、
「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(四条金吾殿御返事・同一五〇二)
と仰せられ、大聖人のもとに登山することによって、罪障消滅の大利益を得ると御教示されています。
 さらには、
「だんなと師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし」(四条金吾殿御返事・同一一一八)
と、僧侶と信徒の心が合っていなければ、水の上で火を焚いても火は燃えないように、祈りはかなわないと仰せられ、僧俗和合の信心の大事を教えられたのです。
(つづく)