歴史の中の僧俗
  
南 条 時 光 4
  
 障魔を乗り越えて

 熱原法華講衆を守るため、日蓮大聖人ならびに日興上人の御指南を命懸けで受け止め、必死の御奉公を果たした時光殿に、さらなる障魔が競い起こりました。
 時光殿と六歳離れた弟の五郎殿(七郎五郎殿)が、弘安三(一二八〇)年の九月五日に不慮の事故によって急逝したのです。
 大聖人は生前、五郎殿に対面された時、
「肝ある者かな、男なり男なり」(上野殿御返事・御書一四九六)
と仰せられ、五郎殿が時光殿と力を合わせ、南条家を支える立派な青年として、信心堅固に成長されることを期待されていました。
 故に、五郎殿急逝の知らせを身延の草庵で受けられた大聖人は、
「人は生まれて死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存じ人にもをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候(中略)まことゝもをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず」(同)
と、あまりにも急な五郎殿の訃報に接し、なんと返事を認めたらよいのか判らないと仰せられ、時光殿に、
「さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり」(同)
と、必ずや五郎殿は臨終正念し、即身成仏されているのだから、今こそ「法華経に身を入れて一層信心に励みなさい」と、厳しく御指南されました。
 また大聖人は、最愛の子息に先立たれた母(後家尼殿)に、
 乞ひ願はくは悲母我が子を恋しく思し食し給ひなば、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて、故南条殿・故五郎殿と一所に生まれんと願はせ給へ」(上野殿母尼御前御返事・同一五〇九)
と仰せられ、七七日忌を迎えた故五郎殿を恋慕するならば、夫(故南条兵衛七郎殿)と同じく霊山で自受法楽されるように、追善供養の唱題に励みなさいと御教示されました。
 厳しくも慈愛あふれるお言葉を賜った母と時光殿は、大きな悲しみを乗り越え、いよいよ自行化他に励んだのです。

病魔を克服して

 ところが、弟の五郎殿の死を乗り越えた時光殿の身に、またしても障魔が競い起こりました。それは、当時の日本で全国的に猛威を振るった疫病が、弘安四年の夏ごろ、時光殿を襲い、翌年の二月ごろには、時光殿は重篤な症状に陥りました。時光殿の病状悪化の知らせは、大聖人のもとに届けられましたが、大聖人も御自身の体調が勝れず、お筆を執ることもできない状態だったのです。そこで弟子の日朗に代筆を命じ、急いで日興上人への書状を認めさせ、時光殿への御秘符を託されました。そして三日後に大聖人は御病気をおして『法華証明抄』を認められました。
大聖人は同抄に、
「法華経の行者 日蓮」(同一五九〇)
と記され、時光殿を悩ます病魔に、「鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか(中略)永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし」(同一五九一)
と、時光殿の病気を早く治すように強く叱咤し、退散するよう、厳命されたのです。
 このような大聖人の激励と御祈念をいただいた時光殿は、日興上人の来訪を得て、御秘符を賜り、まもなく病魔を克服しました。時光殿は、その後、さらに五十年もの寿命を延ばし、更賜寿命の功徳を実証されています。

大聖人御入滅後の教団

 弘安五年十月十三日、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人は一期の御化導を終えられ、武州池上(現在の東京都大田区)にて滅不滅、三世常住のお姿を示し、御入滅あそばされました。
 大聖人は御入滅に先立ち、日興上人に対し、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘道の大導師たるべきなり」
(日蓮一期弘法付嘱書・同一六七五)「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり」(身延山付嘱書・同)
と仰せられ、日興上人を本門弘通の大導師と定めて唯授一人の血脈を相伝し、弟子・檀越を統率されるように御教示されています。
 第二祖となられた日興上人は同年十月二十五日、大聖人の御霊骨を捧持し、身延へと帰られました。
 御入滅直後の身延は、日興上人のお弟子方を中心に、大聖人御在世と同様に清浄な信仰が守られていました。
 しかし、弘安八年に五老僧の一人・民部日向が身延に登り、居住するようになると、次第に、その清浄な空気がよどんでいきました。それまで厳格に仏法を伝持される日興上人に師弟相対の礼を取っていた身延の地頭・波木井実長が、民部日向の邪な考えに影響され、次第に日興上人に背くようになったのです。
 このような日向と実長の謗法に対し、日興上人は正しい信仰に戻るよう、たびたび訓戒されましたが、二人は全く聞き入れませんでした。そこで日興上人は、大聖人の仏法を未来永劫に正しく守り伝えるため、離山を決意されました。その時の御心境を『原殿御返事』に、
「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え(中略)日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(聖典五六〇)
と記されています。このお言葉から身延離山の御心労と滅後の大導師としての御決意が拝されます。

身延離山と時光殿の外護

 日興上人は、正応二(一二八九)年の春、お弟子方を伴われ、身延を離山し、御自身の血縁をたよりに、河合(静岡県富士宮市)の由比家のもとへ身を寄せられました。
 日興上人の身延離山の知らせを聞いた時光殿は、日興上人に対し、上野郷に入られるよう懇請しました。日興上人は、時光殿の篤い外護の志に従って、上野郷へ入られます。
 まず、日興上人は南条家の屋敷(現在の下之坊)に滞在されました。さらに時光殿はその北方に広がる大石ガ原を寄進し、大石寺建立という大事業に尽力されました。そして正応三年十月、時光殿をはじめ、僧俗和合の努力により大石寺が建立され、以来、幾星霜、日蓮大聖人の正法を厳護し、未来広布の暁に本門戒壇を建立すべき根源の霊場、全世界の僧俗の根本道場となっています。

時光殿の信仰を鑑として

 その後、時光殿は信心を根本に、充実した毎日を過ごされたようです。特に晩年、時光殿は土地・所領を子息達に譲渡し、自らは正和五(一三一六)年ごろに「大行」と名乗り、入道となりました。また妻や兄弟に先立たれ、最愛の妻(妙蓮)の一周忌に自ら屋敷を妙蓮寺として寄進しています。
 時光殿は元弘二(一三三二)年五月一目、家族の見守るなか、七十四歳の生涯を閉じます。時光殿の廟所は、雄大な富士山を仰ぎ見るとともに、時光殿が治めた上野郷、そして大石寺を望む下之坊の西側に位置しています。
 毎年五月一目には、総本山開基檀那である時光殿を追善供養する法会として、御法主上人猊下大導師のもとに大行会が奉修され、毎月一日の丑寅勤行では、全山の僧侶が出仕し勤行衆会が奉修されています。
 時光殿の逝去から六百八十三年を迎えた今日、いよいよ荘厳された総本山の諸堂字、また世界から総本山に御信徒が登山参詣し、血脈付法の御法主上人の御指南のまま、未来広布に前進する現在の法華講衆の姿を、時光殿は必ずや称歎されていることでしょう。
 私達は、時光殿の尊い生涯と信仰の姿を鑑として、御法主上人猊下より賜った平成三十三年・法華講員八十万人体勢構築の御命題を必ず達成すべく、異体同心し精進してまいりましょう。