歴史の中の僧俗
  
南 条 時 光 3
  
 日興上人との出会い

 日蓮大聖人は、時光殿の父(兵衛七郎殿)が文永二(一二六五)年に逝去された時、上野の南条家へ墓参に赴かれました。そして十年後の文永十二年正月に大聖人は日興上人を南条家の墓参に遣わされています。
『春之祝御書』に、
「此の御房(日興上人)は正月の内につかわして、御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候」(御書七五八)
と仰せのように、日興上人は大聖人の御命を受けて、南条家を訪れ、時光殿の父のお墓参りをされました。
 この時、大聖人が比較的近い身延より自ら墓参をなされなかった理由は、富士方面には、北条得宗家の管理のもと、鎌倉の極楽寺良観に篤く帰依していた後家尼(北条時宗の母)の所領があり、富士郡下方の高橋家や上方の南条家などに大きな迫害が降りかからないよう、配慮されたのではないかと拝されます。
 また、日興上人を墓参に遣わされた理由として、日興上人が甲駿地方(現在の山梨県・静岡県)に住んでいた親類縁者をたどり、富士山麓の一帯を一周するように東奔西走し、折伏弘教を展開されていたことなどが挙げられます。
 とにかく、この墓参に前後して、時光殿は、日興上人の御教導に浴し、その後に大石寺を建立・寄進する強盛な信心を育んでいくのです。ここに仏法における不思議の因縁を感じることができます。

熟原法難と大聖人出世の本懐
 既に述べたように、日興上人が時光殿と出会われたころ、日興上人は甲斐、駿河、伊豆等で果敢に折伏を展開されていました。時光殿も、日興上人の指揮のもと、自分の所領を拠点として、大聖人の仏法を大いに弘めました。そして親戚縁者の新田家、松野家など、多くの人々を正法に導きました。
 日興上人の折伏弘教の勢いは止まることを知らず、富士下方の岩本実相寺や蒲原四十九院をはじめ、滝泉寺などの住僧達をも折伏教化し、ついに日秀師、日弁師、日禅師等が大聖人に帰伏しました。また周辺の多くの農民も正法に帰依したのです。
 このような状況を快く思わず、憎悪した滝泉寺の院主代・行智は、北条家の重臣・平左衛門尉頼綱を後ろ盾に、日興上人やお弟子、さらに熱原の信徒に対し、陰湿な迫害を加え始めたのです。
 これが熱原法難の始まりです。法難は、弘安年間に入って一層、激しさを増し、ついに弘安二(一二七九)年九月二十一日、行智は武士達に命じ、田の稲刈りに集まっていた法華講衆に襲いかかり、農民信徒二十名を取り押さえました。そして富士下方の政所に拘留したのち、鎌倉へ押送したのです。鎌倉では、平左衛門尉頼綱が自分の屋敷で、一方的な取り調べを行い、全く事件の真相に触れずに「法華の題目を捨てよ」と脅迫しました。
 しかし熱原の法華講衆は、けっしてひるむことなく、お題目を唱え続けました。このような信心堅固な熱原信徒の姿を見た平左衛門は、激怒して拷問を加えましたが、農民達は全く唱題をやめませんでした。
 そこで平左衛門は、これら農民達に対し、春日の矢を放つなどの拷問を加えましたが、屈しないことに業を煮やし、ついに中心者である神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を斬首の刑に処したのです。
 大聖人は、この法難における熟原信徒の不惜身命の姿を鑑みられ、出世の本懐を成就する時の到来を感じられました。
 大聖人は、弘安二年十月一目の『聖人御難事』において、
 「去ぬる建長五年詣四月二十八日に(中略)午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年露なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」 (同一三九六)
と仰せられました。
 大聖人は、釈尊ならびに天台大師、伝教大師が出世の本懐を遂げた期間を明かされた上で「私は二十七年(に本懐を成就するの)である」と仰せられ、まもなく出世の本懐を成就することを明かされました。そして同月十二日、出世の本懐として本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。
 
熱原法難における時光殿の活躍
 このように、大聖人が本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされる契機となった熱原法難において、時光殿は、日興上人の陣頭指揮のもと、熱原法華講衆を守るため、尽力しました。
 例えば時光殿は、正法に帰依したばかりの神主が捕らえられそうになった時など、多くの信徒を自邸にかくまいました。また日秀師、日弁師等を下総(千葉県)の富木常忍氏のもとへ送り届けました。
 一方で、時光殿は罪もなく逮捕された農民の家族を援助し、激励するなど、身命を惜しまぬ御奉公を尽くしました。
 大聖人は、こうした正法外護の功績を称え、若き二十一歳の時光殿に、
 「上野賢人」(同一四二八)
との称号を贈られました。
 さらには、
 「此はあつわらの事のありがたさに申す御返事なり」(同)
と仰せられ、熱原法難における時光殿の姿に対して、「有り難い」と称えられたのです。
 この大聖人の御慈悲あふれるお言葉と、尊称を頂いた時光殿は、どれほど歓喜されたことでしょう。
 時光殿は、地頭の身でありながら熱原法華講衆を支援したため、権力者と結託した謗法者達から重い租税や過分な夫役を課され、経済的にも苦難の連続でした。そのため、時光殿は、
 「わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし」(同一五二九)
と仰せのように、乗るべき馬もなく、妻子の着物にすら困窮する生活を強いられたのです。
 また時光殿は、弘安三(一二八〇)年九月に弟(七郎五郎殿)が急逝するなど心労が重なり、苦境に立たされました。しかし、大聖人や日興上人の御教示を懸命に実践した時光殿は、信心を一層堅固なものとし、困窮のなかでも、大聖人のもとへ欠かすことなく御供養申し上げたのです。
 こうした時光殿の信心に対して、大聖人は弘安三年十二月の『上野殿御返事』に、
 「かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ、りだが合子の中なりしひえを辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとし、たうとし」(同)
と仰せです。
 大聖人は、南条家の逼迫した生活を気遣われながら、真心からの御供養を賞賛され、さらに時光殿の信心を激励されています。
 ここに、私達がお手本とすべき、時光殿の確固不動の信心と、正法護持の尊い志を拝することができます。
(つづく)