歴史の中の僧俗
  
南 条 時 光 1
  
 平成二十七年の御命題達成を土台として、平成三十三年の御命題成就に向かう私達には、新たな決意が求められています。
 そこで本誌では、七百五十年前、日蓮大聖人から直接、御教示を賜っていた法華講衆が、どのような信心を実践されていたか、その心構えはいかなるものであったかを知るため、今月から「法華講衆の魁」を連載します。
 読者諸氏には、当時の法華講衆の命懸けの信心を学び、いかなる困難にも負けない強盛な信仰心を培っていただきたいと思います。

 時光殿の生涯と信仰

 日蓮大聖人の仏法を持ち、第二祖日興上人の御薫陶を受けて、師弟相対の信心を貫かれた一人の信徒がいます。
 名を南条時光といい、今から七百五十五年前の正元元(一二五九)年、南条兵衛七郎殿の次男として出生され、駿河国富士郡上方庄上野郷(現在の静岡県富士宮市上条・下条・精進川・馬見塚等の一帯)の地頭となった人物です。
 時光殿は、上野殿、南条殿とも呼ばれていますが、正式には「南条七郎次郎平時光」と称します。
 父の兵衛七郎殿は、伊豆国南条郷(現在の静岡県田方郡)の地頭でしたが、のちに富士郡上野郷の地頭に転任し、邸宅を構えました。
 兵衛七郎殿の入信は定かではありませんが、当時、鎌倉幕府への勤務で鎌倉に出仕した際、不思議な因縁で、大聖人の御教導を受けたことによります。
 入信後まもなく、兵衛七郎殿は重病を患い、上野郷の自邸で療養に努めていました。
 この様子を聞かれた大聖人は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「御所労の由承り候はまことにてや候らん」(御書三二一)
と認められています。本抄が認められたのは文永元(一二六四)年、大聖人が御年四十三歳の時で、伊豆配流赦免の翌年でした。
 ちなみにこの年には、大聖人は病に伏しておられた母君の病気平癒のため、故郷・安房国(現在の千葉県)に赴かれています。しかし、念仏の強信者である地頭・東条景信が、数百人もの武装した念仏者と共に、大聖人一行を襲撃するという小松原法難が起こりました。
 この法難では、弟子の鏡忍房と有力檀越の工藤吉隆が命を落とし、大聖人も、右の額と左手に深手を負われました。
 ところで、この御書の御文から、兵衛七郎殿が大聖人の正法を聴聞し、念仏を捨てて法華経に帰依しながら、いまだ強盛な信心には至っていなかったことが解ります。大聖人は本抄において、宗教の五綱(教・機・時・国・教法流布の前後)を説き明かされ、念仏への執情を捨てて唯一無二の正法を受持するよう御教示されました。後年、大聖人が子息の時光殿に、
「故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」(上野殿御返事・同七四五)
と仰せられたように、兵衛七郎殿は、晩年には念仏への執着を断ち切り、正法正義を貫き、翌年三月八日に見事な臨終正念の相を示して逝去されたのです。
 兵衛七郎殿の訃報を受けられた大聖人は、上野の南条家へ墓参に赴かれています。
 大聖人の御慈悲あふれる御下向に、当主の逝去を悲しんでいた一族の人々は、感激の涙を流したことでしょう。
 ちなみに大聖人は『春之祝御書』(御書七五八)によれば、身延入山直後の文永十二年一月には、大聖人の御名代として、日興上人が故兵衛七郎殿の墓に代参されており、この時に時光殿は日興上人との邂逅を果たしたと考えられます。これを分岐点として時光殿は、日興上人を師兄と仰ぎながら純真に信仰に励み、着実に篤信の檀越へと成長していくのです。

南条家一族について

 兵衛七郎殿の妻(時光殿の母)は、駿河国庵原郡松野(現在の静岡県富士市)に住した松野六郎左衛門の娘で、兵衛七郎殿との間に多くの子宝に恵まれました。夫の逝去した時、妻は、末子の七郎五郎を身篭もっていました。
 妻は一家の大黒柱である夫を亡くし、身重でありながら、必死で領地を守り、多くの幼子を育てたのです。その苦労は計り知れないものだったでしょう。
 時光殿の母は、夫の逝去後、大聖人から「上野殿後家尼御前」「上野殿尼御前」と呼ばれているように、尼となって夫の追善供養に励みました。
 夫の見事な臨終正念の姿を通し、妻が妙法を受け継いで、子供に信心を法統相続したのです。
 時光殿の純真な信仰の源は、大聖人、日興上人の御教導にあることはもちろんですが、身近な両親の信心、とりわけ、幼少期に母親から受けた信心根本の躾に基づくものでしょう。ちなみに日興上人は母尼御前の逝去ののち、時光殿が孟蘭盆会の供養を願われたことに対して、
「故尼御前の御ために、白米一斗・御酒大瓶一・さいさいの御くそく、いろいろにみまいらせ候ぬ。ほんの御ために、きうたちみな御よりあひ候て、いとなませ給候よし、ほとけしやう人の御けんさんに申しあげまいらせ候ぬ。恐々謹言」(南条殿御返事・歴全一-一七六)
と、大聖人(仏聖人)の御宝前に、時光殿からの真心の御供養をお供えし、御回向されたことを述べられ、その孝養を讃えられています。

時光殿の功績
 
 ここで、時光殿の信仰上の功績について、四点に分けて紹介いたします。
一点目は、時光殿が山深い身延におられた大聖人のもとに、多くの御供養を届けられたことです。
 時光殿は、文永十一(一二七四)年に、長兄の七郎太郎(行忍)が事故によって十八歳で逝去したため、若くして地頭職を受け継ぎました。
 時光殿が、本格的に信行に励んだ時期は、大聖人の身延入山後でした。
 総本山第五十九世日亨上人は『弟子檀越列伝』に、
「長児の太郎が水死(自然の低地)して後に次男の時光が長じて地頭を襲職(職を受け継ぐこと)して青年ながら興師を師兄と恃みて信仰に猛進せられた、興師の行動の陰には必ず時光が居た」
と仰せられています。
 このように時光殿は、日興上人の御教導を受けながら、常に大聖人に御供養をお届け申し上げ、三十通ものお手紙を賜りました。
 これは、当時の信徒のなかでも群を抜く功績です。さらに、大聖人から南条家が賜った五十通余りの御書も、それを雄弁に物語っています。
 時光殿は、自身の生活が逼迫した時であっても、常に大聖人に御供養をお届けして外護を尽くされました。
 また、大聖人御入滅ののちも、同じように日興上人へ御供養申し上げ、外護されました。私達は、こうした時光殿の信心の姿から、水の流れるような不退の信心、篤き外護の精神を学ぶことができます。
(つづく)