歴史の中の僧俗
  
南 条 時 光 2
  
 二つ目の功績は、日蓮大聖人出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊御建立の契機となった、熱原法難における行動です。
 時光殿は、日興上人の陣頭指揮のもと、師子奮迅の活躍をし、東奔西走しました。
 総本山第五十九世日亨上人は、
「富士の法難殊に熱原の時の如きは法縁俗縁地縁加うるに青年の勇気と共に鎌倉政府に睨まれながらも、法華衆の頭領として熱原の数十の僧俗を庇護せられた」
と仰せです。この御指南にあるように、法難の惹起した熱原(現在の静岡県富士市厚原付近)は富士郡の下方にありました。時光殿の所領は富士郡上方の上野郷でしたが、下方にも南条家の縁戚が住んでいました。時光殿にとって、熱原に地縁や俗縁があるとはいえ、幕府に仕える身分にありながら日興上人や熱原の法華講衆を支援することは、命懸けの振る舞いでした。
 しかし、時光殿は大聖人の仏法を弘通される日興上人や熱原の僧俗を護るため、必死の覚悟でその大任を果たしたのです。
 この熱原法難における信心の功績により、時光殿は二十一歳という若さでありながら、大聖人から「上野賢人」との称号を賜りました。
 現在、総本山に所蔵される弘安二(一二七九)年十一月六日の『上野殿御返事(竜門御書)』には、大聖人が宛名に「上野聖人殿」と認められたあと、改めて「聖人」を「賢人」と上書きされた跡が拝されます。さらに大聖人は、
「此はあつわらの事のありがたさに申す御返事なり」(御書一四二八)
と認められました。この御教示から、大聖人が時光殿の信心の成長を心から願われ、大慈悲をもって「上野賢人殿」と認められた深い御意が拝されます。
 三つ目は、血脈相伝の仏法を外護された功績です。
 大聖人御入滅後、日興上人以外の五老僧は、大聖人の教義・信仰にことごとく背き、日興上人に違背しましたが、時光殿は、大聖人にお仕えした時と同じく、日興上人に師弟相対の信心をもって外護の赤誠を尽くされました。
 特に、大聖人第三回忌を過ぎてから日興上人を頼って身延に登山した民部日向は、日興上人の御慈悲で学頭に就任したにもかかわらず、地頭の波木井実長を教唆し、その上、四箇の謗法を容認しました。こうして謗法の山と化した身延の状況を鑑みられた日興上人は、
「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事・聖典五五五)
という大聖人の御遣誡のまま、断腸の思いで身延を離山されました。
その時の御心情を日興上人は『原殿御返事』に、
「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え」(同五六〇)
と記されています。
 かくして時光殿は、富士郡上野郷の地頭として、日興上人に本門戒壇建立の勝地である、富士山麓の大石ケ原を寄進され、未来広布の根本道場たる大石寺開基檀那として、大きな外護を果たしたのです。
 四点目は、時光殿の強盛な信心によって、南条家の一門が法統相続し、万代にわたる宗門興隆の礎を築いた功績です。
 時光殿の長姉(蓮阿尼)は、新田五郎重綱に嫁ぎ、第三祖日目上人の母となりました。次姉は、富士郡重須の地頭・石川新兵衛に嫁ぎ、信心を持ちました。
 時光殿も、父の兵衛七郎殿と同じく、多くの子宝に恵まれました。日亨上人は、
「父の兵衛七郎以上に多児であって家門も繁昌し相模にも丹波にも領地があった」
と仰せです。こうして時光殿の信心によって、子孫は信心に励み、宗門の外護と興隆に努めました。時光殿の娘のうち、長女は石川孫三郎のもとへ嫁ぎ、次女は新田次郎頼綱に嫁して、第四世日道上人の母となりました。三女は加賀野太郎三郎に嫁いで、第五世日行上人の母となっています。また、時光殿の嫡子(次郎時忠)が正中三(一三二六)年に逝去したあとは、五郎時網が一門の総領となりました。
 ちなみに、八男の乙若は本山妙蓮寺第四世の日相師、九男の乙次は妙蓮寺第五世の日眼師となりました。また総本山第六世日時上人、第八世日影上人、第九世日有上人も南条家から御法主上人となられました。南条家出身の御歴代上人が、本宗上代の血脈法灯を継承されたことからも、まさしく南条家が一族を挙げて大聖人の仏法を内護・外護されたことが判るのです。

時光殿の不退の信心

 さて前回も触れたように、大聖人は、時光殿の父(兵衛七郎殿)が文永二(一二六五)年に逝去した時、富士郡上野郷にある南条家の墓所に下向されました。
 このことは、のちに大聖人が『南条後家尼御前御返事』に、
「法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はかにまいりて候ひしなり」(御書七四一)
と仰せです。
 ただし、大聖人が墓参に赴かれた文永二年から身延に大聖人が入山されるまでのおよそ九年間、大聖人から南条家に宛てられた御消息は伝えられていません。そのため、時光殿をはじめ南条家の人々が、その間、どのような信心に励まれたのかを詳しく知ることはできません。
 この期間は、大聖人の御身に身命に及ぶ大難(竜口法難・佐渡配流)が競い起こりました。弟子や信徒にも様々な法難が降りかかり、信心を退転する者が続出したのです。
 その有り様について、大聖人は『新尼御前御返事』に、
「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(同七六五)
と仰せです。
 この当時の大聖人や門下僧俗に対する弾圧がいかに厳しいものであったかを如実に物語っています。当時の大聖人は困窮を極められ、紙や墨も充分ではなく、個々の信徒に対する御返事を認めることすらままならなかったと想像されます。しかし、大聖人は佐渡配流以降、衣食住にこと欠かれるなか、一切衆生救済のために大漫茶羅御本尊を御図顕されました。
 また、佐渡配流中は『開目抄』『観心本尊抄』等の重要法義を明かした御書を富木常忍殿に宛てて、弟子檀越に御教示されました。
 日興上人も、大聖人の佐渡配流から赦免までの間、お側を離れず常随給仕申し上げていましたから、南条家をはじめ、有縁の信徒を激励する暇はなかったと思われます。幸いにも、南条家は鎌倉から離れた地にあり、直接の難を被ることは少なかったようですが、父・兵衛七郎殿が逝去した直後、時光殿の母は多くの子を抱え、その養育と生活に困窮を極めたことでしょう。
 しかし、南条家はそれからもけっして退転することなく信心を持続したのです。このような事実からも、時光殿を養育した母親の信心がまことに堅固であったことは明らかです。
 事実、文永十一(一二七四)年の五月に、大聖人が身延へ入山されたことを知った時光殿は、いち早く種々の御供養を届けられました。
 大聖人は、十六歳の青年となった時光殿の姿を御覧になって、
「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事申すばかりなし(中略)をんかたみに御みをわかくしてとゞめをかれけるか。すがたのたがわせ給はぬに、御心さえにられける事いうばかりなし」(南条後家尼御前御返事・同七四一)
と仰せられています。大聖人は、南条家の不退転の信心を、時光殿の姿を通して間近に御覧になり、時光殿が、父の兵衛七郎殿と姿だけではなく、その心根もよく似ていることをたいへん喜ばれました。
 それからの時光殿は、いかなる逆境のなかでも、信心を違えることなく、大聖人のもとへ、懸命に真心の御供養をお届けしたのです。
 大聖人は『上野殿御返事』に、
「水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか」(同一二〇六)
と仰せられ、時光殿の不退の信心を賞賛されています。時光殿は、水の流れる如き清らかな信心を生涯、貫いたのです。
(つづく)