歴史の中の僧俗
  
妙寿日成貴尼
  
 九州開導の師 妙寿日成貴尼 護持弘通の生涯

 一月二十日、福岡県久留米市の広布山霑妙寺において、御法主日如上人猊下の大導師のもと、妙寿日成貴尼第百回遠忌並びに九州開教百五十年記念法要が奉修された。ついては、妙寿日成貴尼の護持弘通の生涯に関して掲載し、併せて九州布教の歴史についても紹介します。


一、妙寿日成貴尼の生涯
誕生から出家まで

 妙寿日成貴尼は、天保六(一八三五)年五月十九日、父を内大臣近衛忠煕の家司・朝山改め佐野蔵人、母を丹波亀山藩・形原松平家の家臣・青山惣太夫の娘・梶の三女として、京都東若宮町(上京区)に出生した。
 「亀屈」と名付けられ、名門家出身の両親による庇護のもと、何一つ不自由なく、幸せな幼少期を過ごした。
 父の蔵人は教育熱心で、躾けに厳しく、亀尾は身につけるべき礼儀作法や習い事はもちろん、文学から武芸に至るまで、徹底して教え込まれた。この時期に受けた教育が、後の九州弘教の際、大いに発揮されることになる。
 万延元(一八六〇)年に父が亡くなり、さらに二年後の文久二(一八六二)年に母と妹を亡くした。
 相次いで肉親を亡くしたことに悲観し、両親や妹の菩提を弔うため、また幕末という時代の動きを肌で感じ、文久三年に、はじめは大石寺を誹謗する異流義・堅樹派の臨導日報を師に出家し、佐野好堅と称した。

大石寺への帰伏
 謗法とは知らず好堅尼は、素直に臨導の教えに従い日々仏道修行に励んでいた。その後、師・臨導の臨終における堕地獄の悪相を邪義の現証として目の当たりにした。それは、日頃、臨導自身から聞いていた成仏の姿とは天地雲泥の相違であったため、かねてよりの師のあまりにも激しい大石寺批判に疑問を抱くだけでなく、大石寺に密かに心を寄せていたため、まだ恩のあった師匠に対し、
「大聖人様の御金言にも『何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつぺし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し』と仰せられています。この苦悩の御容態はまさしく謗法の罪にて無間大城に堕ちる前相と考えます。そして、その謗法罪は主として富士(大石寺)誹謗の罪が重なるものに違いありません」(九州開導の師 妙寿日成貴尼伝 十四㌻)
「我らはお師匠様の教えに背き、大石寺正義・当寺(双林寺)邪義と決定しました。この上は、大石寺に帰伏することが、かえってお師匠様の謗法罪を救うことと信じます。ぜひ御承知置きください」(同 十五㌻)と訴え、師匠に向かって最後の諌言をした。はたして臨導は、嬉しげに合掌して安泰の仏相を現わして眠るように命終した。
 この厳然たる実証の体験が妙寿尼の大石寺への深く固い信心を築いた。
 明治八(一八七五)年六月八日、日霑上人に願い出て、得道受戒を許され、弟子となり妙寿日成と名を賜った。
 十数年にわたり大石寺を悪口誹謗してきたことを悔い、罪障消滅のため「九州の異流義信徒のすべてを破折し、救いきる」との大願を起こし、久留米に赴き大折伏を展開し、北部九州に霑妙寺をはじめ、多くの本宗寺院建立の礎を築いた。

妙寿尼のお弟子育成
 妙寿尼は多くの弟子を育成した。その中から第五十九世日享上人、第六十二世日恭上人の御二方が御法主上人となられた。

逝去
 妙寿尼の臨終の姿は、まさに他の
模範となるものであった。生前に葬儀の際の法衣、位牌から骨箱に至るまで自身で周到に準備され、病の苦しみもなく弟子や信徒へはいつものように法義を談じl、
「人は断末魔の苦しみと言うが、自分は断末魔の楽しみである」(同 二三九㌻)
と唱題に余念がなかった。
 また臨終の前日一月十四日には弟子や周囲のものに、
「明日は旧暦で言えば父の命日であるから、私は明日、臨終する」(同 二四〇㌻)
と言い置くとそのまま筆を執って辞世の句を詠み、葬列の次第などを認められた。その確信した姿に誰一人驚かないものはいなかった。
 こうして妙寿尼は大正五(一九一六)年一月十五日、安拝として逝去された。


二、地域伝導と教勢発展
九州布教の歴史

 九州に初めて大石寺の教えが伝わったのは、鎌倉時代後期である。
 元弘三(一三二三)年に第二祖日興上人の弟子の日仙師が、土佐国幡多(高知県宿毛市)に大乗坊を興したことが機縁となり、日仙師は、大乗坊と太平洋を挟んで対岸に位置する日向国早田(宮崎県日向市)に住む道証房という僧を破折し改宗させた。この道証房が折伏した薩摩法印という僧は日知屋という地に定善寺を創した。しかし、第三祖日目上人が入滅された後、定善寺も大石寺の信仰から離れてしまった。以来、離反は昭和三十二年の定善寺とその一門の日蓮正宗への帰一まで続いた。
 遡って安政から文久の頃、堅樹派の臨導日報は、京都洛北に双林寺を拠点に、筑前国や筑後国(福岡県)で大石寺を敵として盛んに誹謗・中傷を繰り返していた。九州にも数少ない大石寺の信徒がいて、異流義の堅樹派への破折を加えていたが、屈服させるまでに至らなかった。

折伏戦の大闘士
 そこに現われたのが、折伏戦の大闘士、妙寿尼であった。
 妙寿尼は単身で久留米に入り、文字通り死身弘法の闘いによって多くの人々を入信させ、ついに念願であった本宗寺院、霑妙寺を建立するに至った。
 さらにその勢いは一層増して十一ヵ寺の礎を作り上げ、九州北部地域に大石寺の正義を大いに顕揚した。
 まさに、妙寿尼が「九州開導の師」と謳われる所以である。