歴史の中の僧俗
  
敬 台 院 殿
  
 第三百五十回遠忌を迎えるに当たって
 敬台院殿の功績と生涯
 本年十二月二十三日、総本山において敬台院殿第三百五十回遠忌法要が奉修されます。ついては、敬台院殿の宗門における多大な功績と生涯について掲載し、併せて周りの方々やその後の歴史についても紹介します。
  一、敬台院殿の生涯

 誕 生

 敬台院殿(万姫)は、文禄元(一五九二)年、下総古河藩主小笠原秀政の長女として誕生されました。父秀政は信濃の守護大名であった小笠原氏の末裔で、母登久姫は、徳川家康の長男松平信康と、織田信長の長女徳姫の間に生まれました。この血筋から敬台院殿は家康と信長の曽孫に当たります。

 蜂須賀家へ嫁す

 慶長五(一六〇〇)年一月、九歳の時に曽祖父である家康の養女となり、阿波徳島初代藩主蜂須賀至鎮公に嫁ぎましたが、元和六(一六二〇)年、二十九歳の時、夫君至鎮公と死別しています。
 その間、後の総本山第十七世日精上人に帰依し、大石寺の信仰を深められました。

 江戸法詔寺を建立

 敬台院殿は、元和九(一六二三)年、実母である峯高院殿(小笠原秀政夫人・登久姫)の十七回忌に当たり、その菩提のために江戸に法詔寺を建立され、初代住職として日精上人を迎えられました。

 大石寺御影堂を建立寄進

 寛永九(一六三二)年十一月十五日、日興上人・日目上人第三百回遠忌に当たり、日精上人が願主となり、敬台院殿の寄進によって、総本山大石寺の御影堂が再建されました。御影堂の棟札には「大施主 松平阿波守忠鎮公之御母儀敬台院日詔信女敬白 日精養母也」とあります。

 大石寺維持基金七百四十一両を寄進

 寛永十五(一六三八)年六月二十四日付の敬台院殿の書状によれば、当時の大石寺総代に対して、五百両を御法主上人のお住まいである方丈(大坊)を永代にわたり維持する基金とし、また二百四十一両を御影堂の茅葺替えのための準備金とするよう浄財を寄進され、総本山大石寺の万代にわたる繁栄を願われています。

 大石寺の朱印状下付に尽力

 敬台院殿は、幕府の重役伊丹康勝に働きかけるなど、総本山大石寺が朱印状を得られるよう尽力され、寛永十八(一六四一)年六月二十八日、朱印状が下付されました。これによって幕府から寺領の所有権を保証され、年貢・課役なども免除されました。
 なお、寛永十四(一六三七)年には、敬台院殿の推挙により日精上人の公儀年賀の乗輿も免許されています。

 細草檀林を建立寄進

 寛永十九(一六四二)年、法詔寺二代の顕寿院日感師が願主となり、敬台院殿の寄進により、上総(千葉県)に細草檀林(遠霑寺)が建立されました。
 細草檀林は、天台教学を中心とした仏教全般にわたる僧侶の学問研鑚所で、総本山第二十一世日忍上人をはじめ、第二十二世日俊上人、第二十六世日寛上人等、明治五(一八七二)年の廃檀まで多くの御歴代上人が学ばれました。

 心蓮山敬台寺を建立

 正保二(一六四五)年、敬台院殿は江戸法詔寺を阿波徳島の現在地に移し、心蓮山敬台寺を建立して自らの菩提寺とされました。

 正法寺を改宗させ再興

 また正保(一六四五)年頃、敬台院殿は自身の拝領地(化粧料地・徳島県藍住町)にあった正法寺(元臨済宗正岡寺)を改宗させ、敬台寺の末寺とし、領内の村民もすべて法華経に帰依させています。

 敬台寺の末寺として本玄寺を建立

 さらに慶安元(一六四八)年頃、敬台院殿は、敬台寺の末寺として本玄寺を建立し、藩内領民の信仰にも寄与されました。

 逝去

 敬台院殿は、寛文六(一六六六)年正月四日寅の刻(午前四時頃)、徳島城西の丸において逝去され、七十五歳の尊い生涯を閉じられました。法号は敬台院殿妙法日詔大姉と賜っています。
 敬台院殿の功績を讃え、大石寺御影堂の裏には逆修塔と供養塔が建立され、その傍らには長女の芳春院、孫の現寿院の墓石も建立されています。
 法統相続
 敬台院殿の篤き信仰心は、子孫への法統相続によって鳥取池田家、薩摩島津家等の大名家におよび、また阿波法華講衆をはじめ各地の法華講衆に受け継がれていきました。
 そして、その外護の赤誠は、法華講衆の信仰の鑑として現代まで語り継がれています。

二、夫君蜂須賀至鎮公

 祖父小六

 蜂須賀至鎮公の祖父は、尾張国(愛知県)の豪族の出身で、蜂須賀家の家祖・蜂須賀小六です。小六は美濃(岐阜県)の斎藤道三に仕え、後に織田信長に仕官し、さらに豊臣秀吉の家臣となった人物です。秀吉の軍師として外交官のような役割を果たしました。

 父家政

 至鎮公の父は、小六の長男家政です。家政は小六と共に織田信長に仕え、後に秀吉の家臣となりました。各地で戦功をあげた家政は、天正十三(一五八五)年の四国攻めの後、阿波国十七万五千七百石を与えられました。家政はおよそ五十年間にわたって藩の政治を執り、寛永十五(一六三八)年、八十一歳で亡くなっています。
 敬台院殿が法華経に帰依したのは、この家政の縁によるとも言われています。

 至鎮公

 至鎮公は、藩祖家政の長男として徳島に生まれ、八歳で秀吉に仕え、九歳で大名待遇の官位を与えられました。
 慶長五(一六〇〇)年、十五歳の時に家康の養女敬台院殿を正室に迎えました。
 慶長十九(一六一四)年、大坂冬の陣での大軍功により、松平姓(徳川家の旧姓)が与えられ、淡路国七万石が加増されました。これによって阿波・淡路二十五万七千石の大大名となりました。
 至鎮公は、元和六(一六二〇)年、三十五歳で亡くなりました。
 敬台院殿は、夫君の菩提を弔うために落髪し、日精上人の御教導を仰いで信仰を深められました。

   三、歴代徳島藩主の信仰
 至鎮公亡き後は、長男の忠英公が、祖父家政公の後見により十歳で二代藩主となり、城下町の整備や重要な役職を設け、領内繁栄の礎を築きました。忠英公は、生母の敬台院殿と共に大石寺の信仰に励み、徳島敬台寺建立に当たっては、藩主として大いに貢献し、承応元(一六五二)年、江戸でその生涯を閉じています。
 忠英公の長男・三代藩主光隆公は、敬台院殿の信仰を受け継ぎ、寺領である山林を保護するなど、敬台寺の外護と発展にさらに寄与しました。
 また、五代藩主綱矩公の六男・宗員公は、六歳で分家である冨田新田藩の藩主となりました。しかし、兄の病死により享保十三(一七二八)年、綱矩公の跡を継いで、徳島藩の六代藩主となり、総本山第二十九世日東上人に、伽羅枕・漆塗花紋螺鈿重箱など数々の御供養の品を奉納しています。