歴史の中の僧俗
  
河 合 入 道 4
  
 河合入道殿とその一族の信心 (4)

 前回まで河合入道殿とその縁者の信心の姿を見てきましたが、最後に河合殿有縁の地(河合・西山)の出身者で、日興上人の御教導に浴した日禅師、日代師に触れます。

少輔公日禅師と南之坊

 現在、大改修中の総本山三門を北上すると、中央塔中西側(左側)の一番手前に南之坊があります。
 南之坊は、日興上人が正応三(一二九○)年に大石寺を開創された時、本六僧の一人・少輔公日禅師によって開かれました。南之坊は、初めは少輔坊と呼ばれ、現在の理境坊の北側にありました。その後、江戸時代に総本山第十七世日精上人が、養母・敬台院殿の外護のもと、御影堂の再建と周辺の整備を行われた際に、現在地に移転し、南之坊と改められました。
 総本山第五十九世日亨上人は、日禅師について、
「日禅上人は、富士河合の人なり。郡の滝泉寺に出家して寺家となる。日興上人の弘教の時に、日秀等とともに帰正して近里に弘教し、内外より滝泉寺を震わす。ついに院主代の強圧によって河合に退く。その後興師に随逐し、大石原に南之坊を起こし大坊を守る、また師命を受けて、河合入道の碑を移して東光寺の基とし、妙福尼の碑を立てて妙興寺の基とし、老年南之坊に逝く」
と仰せられ、その生涯を伺う史料はわずかであると指摘されています。日亨上人の収集された諸史料によると、日禅師は河合家の出身で日興上人とは縁戚関係に当たります。
 日禅師は、富士熟原の天台宗滝泉寺の学僧でしたが、日興上人の教化により、大聖人の御弟子となりました。その後も日禅師は寺内にとどまり、日秀師らと共に下種折伏に果敢に励みながら、正法弘通に尽力しました。
 また、大聖人の『滝泉寺申状』には、
「行智は当寺霊地の院主代に補し乍ら、寺家・三河房頼円並びに少輔房日禅・日秀・目弁等に仰せて、行智、法華経に於ては不信用の法なり、速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書かば、安堵すべきの旨下知せしむるの間(中略)日禅等は起請を書かざるに依って、所職の住坊を奪ひ取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢んぬ」(御書一四〇三)
とあるように、建治二(一二七六)年ごろから、院主代の行智は、日禅師等に対して、大聖人の法華本門の信仰をやめて念仏を称えますとの起請文の提出を迫りました。日禅師は、こうした謗法者の策謀にも屈せず河合の地へ退出し、正法護持を貫いたのです。
 こうして、強盛な信心を貫いた日禅師は、弘安三(一二八〇)年に大聖人から御本尊を授与されました。
 大聖人の御入滅後、日禅師は日興上人に随従し、身延離山にもお伴して富士山麓大石ガ原に移り、本六僧に選ばれました。また日禅師は日興上人の命で、河合入道殿ならびに日興上人の御母(妙福)の墓所を富士上野の地へ移しました。
 かくして日禅師は総本山大石寺に止住し、元徳三(一三三一)年に逝去されています。
 現在、総本山客殿の東側から御影堂に向かう出仕道(入口付近右手)の杉木立に日禅師の墓所があり、ここが旧少輔坊(南之坊前身)の跡地と伝えられています。

蔵人阿闍梨日代師

 日興上人の新六僧の一人で西山本門寺開基の日代師について、日精上人は『家中抄』に、
「釈の日代、俗姓は由比、興師外戚の甥なり、日善の舎弟なり、永仁二年甲午誕生なり。若年より富士重須に登り日興に奉仕し、出家入道して伊与と号す。解学日に新たにして智徳弥宏深なり、師法器為るを見て当家の深義悉く之れを伝う、生智の才有るが如し」(聖典六七五)
と仰せです。さらに日亨上人は、
「日代上人は、富士河合の由比家の出身にして、興尊の外姪に当たり、兄の日善とともに少年より師の門に入り、出家して伊予公と称し、重須談所に修学を励み、信行増進して若大衆間に頭角を顕わし、次第に師に信任せられ、蔵人阿闍梨と称せらる(中略)興師の晩年には、中年ながら重須の坊職を委ねらるるにいたるは異数のことである」
と日代師の功績について述べられています。
 これらの御先師方の御教示によれば、日代師は河合の出身で日興上人の母方の甥に当たり、日善師とは兄弟でした。
 日代師は永仁二(一二九四)年に誕生し、幼少期に兄の日善師と共に、重須の日興上人のもとで出家し、伊与公と号しました。その信解は他の弟子達に抜きんでており、日興上人はその法器を見抜かれ、若くして重須の坊職に任じられました。しかし、元弘三(一三三三)年に日興上人と日目上人が相次ぎ御入滅されたため、精神的な支柱を失った重須の大衆に隙が生じ、「仙代問答」(方便品読誦・不読誦の論争)の結果、日代師は重須からの退出を余儀なくされます。
 また日亨上人は、日代師の兄の日善師と甥の日助師について、
「由比家関係の法縁事業には(日代師は)日善および甥の日助と提携して、河合上野に芳跡を残す」
と仰せられ、日代師と共に両者の生涯を知りうる関係史料は乏しいと指摘されています。おそらく日善師、日助師も日代師と同じく日興上人に常随給仕して富士門流の化儀と信条を体得し、広宣広布のため随力弘通していたことは想像に難くありません。ただし、現在の西山本門寺が北山本門寺や小泉久遠寺と同じく、大石寺の化儀化法から離れ、身延日蓮宗に謗法与同しているのは、まことに哀しいことです。

おわりに

 これまで見てきたように、河合殿の一族は日興上人の御教導を素直に信受し、大聖人を末法の御本仏と仰いで正法を受持し、懸命に信行に精励しました。また、その一族からは日禅師等の僧侶を輩出し、御奉公を果たした姿も伺えます。
 私達は河合殿一族の姿を手本に正法流布のため、異体同心の折伏実践に邁進しましょう。     (了)