歴史の中の僧俗
  
河 合 入 道 3
  
 河合入道殿とその一族の信心 (2)

 今回も前回に続き、河合入道殿とその縁者の賜った『撰時抄』を除く八通の御書より、残る五編を拝します。

④『西山殿御返事』(御書一〇七二)
 『西山殿御返事』は、大聖人が建治二(一二七六)年、御年五十五歳の時に身延で認められた御消息です。御真蹟は伝わっていません。
 本抄は、西山殿が大聖人に「青鳧(銭)五貫文」を御供養申し上げた、その深い志に対する御礼です。
「うつりやすきは人の心なり。善悪にそめられ候。真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ。法華経にそめられ奉れば必ず仏になる(中略)いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候」(同一〇七二)
 すなわち「人の心は移ろいやすく善悪に染められやすい。雪や漆が他の色に染められないように、法華経の信心を堅固にして、謗法に染められ地獄に堕ちることなく、必ず成仏を期しなさい」と誡められています。
 こうした御教示から、西山殿が鎌倉幕府の御家人として、諸宗の謗法者と接する機会が多かったことが伺えます。
 大聖人が謗法厳誡を何度も御教示された、深い御慈悲が拝されます。

⑤『西山殿御返事』(御書一一〇一)
 この『西山殿御返事』は、大聖人が建治三(一二七七)年一月二十三日に身延で認められました。かつて身延山久遠寺に御真蹟がありましたが、明治九年の大火で焼失しました。
 本抄は短い御書ですが、
「としごろ後生をぼしめして、御心ざしをはすれば、名計り申し候。同行どもにあらあらきこしめすべし。やすき事なれば智慧の入る事にあらず、智慧の入る事にあらず」(同一一〇一)
と仰せのように、河合入道殿(西山殿)が、大聖人に後生の菩提を願われ、真心からの御供養をお届けしたことに対する返礼のお手紙です。
 その内容は、西山殿が自身の後生について、その仏道を求める志の篤いことを称賛されたものです。特に「名計り申し候」と仰せのように、大聖人は西山殿の求道心に応えられ、「法門の名目」を説かれたことが拝されます。そして、その法門の詳細は「同行ども」からよく伺うようにと御教示され、さらに「その法門は平易であり、深い智慧を要することはない」とされます。しかし本抄からは、その具体的な名目や内容の詳細について伺うことはできません。
 こうした御教示の内容から、本抄は古来、大聖人が『法華経二十重勝諸教義』を河合殿に与えられた際の送状とする説があります。

⑥『法華経二十重勝諸教義』(御書一一九〇)
 『法華経二十重勝諸教義』は御真蹟が伝わりませんが、大聖人が建治三年に認められた御書とされています。
 大聖人は本抄で、まず法華経を謗る罪の深いことを妙楽大師門下の智度が書いた『法華疏義讃』を引かれます。
 次に法華経が爾前諸経に勝れる所以について、妙楽大師の『法華文句記』に示された「十双の法門」(法華経二十重勝)を挙げられます。
 そのなかで大聖人は、妙楽の示した法華経が爾前諸経に勝れる二十項目それぞれについて、該当する法華経の要文を示されました。
 大聖人は妙楽の「十双の法門」について、『法華取要抄』『兄弟抄』にも触れられていますが、十双すべてについて経文を当てられた御書は、本抄のほかに見えません。
 また既に紹介したように、河合入道殿は、大聖人から『三三蔵祈雨事』『減劫御書』『宝軽法重事』等の重要な法門書を賜っています。西山殿が、大聖人の御法門について日興上人の御教導を受け、一定の信解に到達していたと考えられます。前掲の『西山殿御返事』に、
「やすき事なれば智慧の入る事にあらず」(同一一〇一)
「同行どもにあらあらきこしめすべし」(同)
とあり、西山郷周辺に住む信心の同志と共に、さらなる法門の研鑽に励むように、大聖人は河合入道殿を督励されています。

⑦『かわいどの御返事』(御書一四六五)
 『かわいどの御返事』は、弘安三(一二八〇)年四月十九日、大聖人が御年五十九歳の時に認められた御書で、御真蹟は末尾部分のみが伝えられています。
 前半部分の内容を詳しく知ることはできませんが、
「人にたまたまあわせ給ふならば、むかいくさき事なりとも向かはせ給ふべし。ゑまれぬ事なりともえませ給へ。かまへてかまへて、この御をんかはらせ給ひて、近くは百日、とをくは三ねんつゝがなくば、みうちはしづまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ果報なりけりと、人のわらわんはづかしきよ」(同一四六五)
と仰せです。すなわち、大聖人は「人に会ったならば努めて笑顔を作り、御恩(幕府の命令等)を被って三年ほど無事に過ごせば、御内(得宗家・御内人)は静まるであろう。それに満たないうちに何か問題を起こせば、人から笑われるだろう」と、河合殿に注意されています。
 このお言葉を拝するかぎり、熱原法難の翌年に至っても、その余波が河合家にまで及んでいた様子が伺えます。また本抄の約三カ月後の『上野殿御返事』には、
「ないないは法華経をあだませ給ふにては候へども、うへにはたの事によせて事かづげ、にくまるゝかのゆへに、あつわらのものに事をよせて、かしここゝをもせかれ候こそ候めれ。さればとて上に事をよせてせかれ候はんに、御もちゐ候はずば、物をぼへぬ人にならせ給ふべし」(同一四七九)
と仰せられています。つまり「権力者は、内心では法華経を敵とし、表面ではほかのことにかこつけて憎んでくるのが常であるから、熱原の者達にことよせて、何かと妨げられるであろう。かと言って、従わなければ、あなたはものを弁えない人になってしまう」と述べられていることから、当時、日興上人と周辺の僧俗に対して大きな弾圧がのしかかっていた状況が解ります。
 こうした御教示からも、南条時光殿や富士山麓周辺の信心の同志と共に、河合殿が門下の僧俗を外護し、赤誠の信心を貫かれた姿が偲ばれます。

⑧『西山殿後家尼御前御返事』(御書一五八三)
 『西山殿後家尼御前御返事』は、弘安四年、御年六十歳の時に身延で認められ、河合殿の娘・故高橋入道殿の夫人(窪尼)に授与された御書です。御真蹟は伝わっていませんが、現在、総本山大石寺に日興上人の写本が厳護されています。
 本抄は、窪尼から甘酒、山芋などの御供養に対する御礼の御消息です。夫亡きあとの夫人の信心の姿については、既に本誌・平成二十七年十一月号で紹介しましたが、大聖人は窪尼が夫の逝去直後にもかかわらず、身延におられる大聖人に対して、真心からの御供養をお届けした志を称賛されています。
 さらに大聖人は、
「日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろかにおはすべき。ふくろはくさけれどもつゝめる金はきよし。池はきたなけれどもはちすはしゃうじゃうなり。日蓮は日本第一のえせものなり。法華経は一切経にすぐれ給へる経なり。心あらん人金をとらんとおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。蓮をあいせば池をにくむ事なかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし」(同一五八四)
と仰せられ、「日蓮は汚い袋、汚い池のようなものだが、法華経を持つ故に、中身は金、蓮であり、汚い凡僧が仏に成ることこそ、法華経の御力を示すことになろう」と御教示されています。
 以上、河合殿とその縁者に賜った八通の御書を拝してきました。そこには、河合殿とその一族が大聖人、日興上人の御教導を素直に拝し、日夜、信行学に励まれた姿が示されています。
 また同時に、熱原法難をはじめ、大聖人・日興上人門下が直面した未曽有の法難を、富士山麓周辺の信心の同志と共に、懸命に外護申し上げた河合殿の姿が明らかです。私達は、こうした河合殿と一族の赤誠の信心をお手本とすべきでしょう。(つづく)