歴史の中の僧俗
  
河 合 入 道 2
  
 河合入道殿とその一族の信心

  前回述べたように、日蓮大聖人が河合入道殿と縁者に授与された御書は、五大部の『撰時抄』を含めて九編が確認できます。今回は『撰時抄』を除く八編の御書から、三編を拝し、その信心の姿を見てまいります。

①『三三蔵祈雨事』(御書八七三)
 まず『三三蔵祈雨事』は、大聖人が建治元(一二七五・聖寿五十四歳)年六月二十二日に、身延から駿河国(西山郷)に住した西山殿に与えられた御書で、『西山殿御返事』とも呼ばれています。この宛名から大聖人が西山郷の地頭である河合入道殿とその縁者を「西山殿」と呼ばれたことが解ります。西山殿という呼び名は、西山郷に住した複数の檀越に対する呼称のようです。第二祖日興上人の折伏により、西山殿が大聖人の正法正義を信受し、謗法を捨てたことが伺えます。
 ところで『三三蔵祈雨事』の御真蹟(全十四紙)は前後二紙を除く十二紙が総本山大石寺に厳護され、毎年、四月の御霊宝虫払大法会で御披露されています。
 本抄の題号である「三三蔵」とは、八世紀にインドから中国(唐代)に渡って真言密教の邪義を弘めた善無畏・金剛智・不空の三名の三蔵を指します。本抄において、大聖人は鎌倉での祈雨で暴風雨を降らせた真言律宗の極楽寺良観と同様に、中国の真言師達(三三蔵)も祈雨を行い、暴風雨を吹かせて国土を荒廃させたという大悪の現象を挙げられ、法華本門の信仰による祈祷こそ真実であると仰せられ、真言の邪義を破折されています。本抄の題号は後世の撰号ですが、その内容から西山殿がかつて真言宗に帰依していた様子が伺えます。大聖人は、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書八七四)と、西山殿を教化されています。その上で、
「仏になるみちは善知識にはすぎず」(同八七三)
と仰せられ、真実の即身成仏には正しい善知識、すなわち正法正師に帰依すべきことを説かれています。
 特筆すべき点は、大聖人は文永五(一二六八)年の蝦夷の反乱や蒙古の使者の来朝によって、幕府が真言師に命じて調伏の祈祷を行うことを予見され、翌年あたりから真言の破折に力を注がれています。

②『蒙古使御書』(御書九〇九)

 『蒙古使御書』は、大聖人が建治元年九月に身延で認められた御書ですが、御真蹟は伝わっていません。
 本抄の対告衆である西山殿について、総本山第五十九世日亨上人は日興上人の母方の家系に当たる由比氏(河合家)の縁者とされています。前述した西山殿と一族が大聖人から賜った数編の御書を拝する限り、西山殿は鎌倉幕府から種々の情報を入手し、大聖人の御許にたびたび御供養をお届け申し上げ、深い信仰を持たれた人物と考えられます。
 本抄には年月日の記載がありませんが、
「最明寺殿の十三年に当たらせ給ひ」(同九一〇)
と、その年が北条時頼(弘長三年卒)の十三回忌に当たると記されていることから、幕府が蒙古の使いを斬首した建治元年九月七日直後の御述作と拝されます。
 本抄末尾には「乃時」と記されています。これは「直ちに」という意味であり、大聖人が西山殿の使者を待たせて本抄を御述作された様子を意味します。当抄において大聖人は、西山殿が鎌倉から無事に西山に帰られたことを安堵され、さらに幕府が蒙古の使いを竜口で斬首したという報告を踏まえられ、日本国の真実の敵は念仏・真言・禅・律等の邪法邪師であり、それらを斬首せず罪なき蒙古の使いを処刑したことは実に不便とされます。
 大聖人は宗旨建立以来、末法の衆生を教化されてきたことは亡国という第一の大難を払うことで、邪法邪師を用いて正法の行者を失う元凶を喝破されています。
 次に、大事の法門とは格別なことではなく、時に当たり、自身のため、国のため、最も大事な本質を見極めることこそが智者の振る舞いとされます。また仏が尊敬される所以は三世を通達する大智慧にあり、竜樹、天親、天台、伝教等の聖人・賢人も仏に及ばずとも三世をほぼ把握していたため、その名が後世に伝えられたと示されます。愚痴の凡夫は、日月等を含め、法界の一切諸法が本来、己心に具わるという一念三千の法門を見失い、あたかも盲目の人が鏡に自分の姿を写しても見えず、幼児が水や火を怖がらないようなものであると仰せです。
 さらに、外道や小乗、権大乗等の教法は諸法の一分を説くものの、法華経のようにすべてを束ねた経説ではなく、一切経には勝劣浅深があり、弘教者にも聖賢が存することを明かされています。
 かくして大聖人は、西山殿が鎌倉から西山郷に帰られるや否や、早々に御供養の品々を届けられた深い志を称賛され、国中の大半が嘆き悲しむなか、大聖人とその門弟は法華弘道の法悦を感じなくてはならないとされています。すなわち蒙古襲来は避けられないが、大聖人門下が日本のため国難に遭ったことは諸天の知るところであり、後生の加護について大確信を示されています。
 こうしたなかで、西山殿は今生で既に蒙古の国恩を被る人であると示されています。
 すなわち大聖人は、蒙古の襲来が
なければ、時頼の十三回忌である本年は幕府執権が富士の巻狩を行い、相当な負担が西山殿にかかり、あるいは蒙古の襲来で九州に配属されたであろうが、西山殿が鎌倉から戻れたことこそ正法信仰の功徳であると仰せられ、本抄を結ばれています。

③『宝軽法重事』(御書九八九)

 『宝軽法垂事』は、大聖人の御真蹟(全八紙)が総本山に厳護されています。本状は、大聖人が建治二(一二七六)年五月十一日(聖寿五十五歳)に西山殿からの筍の御供養に対する御礼の書状です。
 大聖人は、初めに法華経薬王品、天台大師の『法華文句』、妙楽大師の『文句記』を引かれ、三千大千世界に満つる七宝(財宝)を仏に供養するよりも、法華経の一句一偈を受持する功徳が勝れることを示されています。さらに、
「夫法華已前の諸経並びに諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此の法華経は経の功徳をほめたり、仏の父母のごとし」(同九八九)
と仰せられ、世俗の財宝よりも仏法は重く、仏法こそ諸仏の父母であり、爾前権仏は法華経より生まれたと御教示されています。ここに本抄が『宝軽法重事』と称される所以があります。
 そして大聖人は、天台、伝教は時機未熟のため、像法時代は法華経を如説修行することができず、末法に初めて寿量品の釈迦仏が建立されるとされ、久遠元初の釈尊すなわち御本仏の末法出現を密示されています。
 また、一切諸仏の根源である法華経を受持する人、すなわち真実の法華経の行者が、爾前諸経の行者に勝ることは、帝釈と猿猴、師子と兎の勝劣のように明らかであるにもかかわらず、世間の顛倒した姿を嘆かれ、今こそ真実の法華経の行者が出現し、真言等の邪義を破折するという大確信を示されています。こうした内容からも、西山殿の一族がかつて真言密教を信じていたことは間違いないと考えられます。
 最後に、大聖人は御供養の御礼を再び仰せられるとともに、西山殿の深い志によって、一族に正法受持の広大無辺なる功徳が具わることを御教示され、本抄を結ばれています。
 大聖人の御慈悲を拝する時、私達は謗法の悪縁に惑わされず、確固不動の信心を持ち、一生成仏を期す大事を銘記すべきです。(つづく)