歴史の中の僧俗
  
河 合 入 道 1
  
 第二祖日興上人と河合入道殿の深い縁

 河合入道殿(法号蓮光)は、駿河国富士郡河合(富士宮市長貫)から、同郡西山の郷に移り住んだとされる日蓮大聖人御在世の信徒で、西山殿あるいは由比(井)氏とも呼ばれていたようです。
 河合とは芝川が富士川に合流する川合を意味する古い地名で、現在も「川合」の字名が残っています。特に日興上人の母(妙福)は河合入道殿の娘ですから、河合入道殿は日興上人の外祖父となります。
 父の大井橘六が若くして亡くなったのち、日興上人は、母が綱島九郎太郎に再嫁したため、弟の橘三郎光房と共に河合入道殿のもとで養育されたと伝えられています。
 日興上人は『弟子分本尊目録』に、
「河合入道は、日興の祖父なり。仍って申し与ふる所件の如し」(歴全一-九二)
「遠江国前住甲斐国大井橘六の三男、橘三郎光房は、日興の舎弟なり」(同)
と、河合入道殿を「祖父」、橘三郎を「舎弟」と呼ばれています。河合氏の家系を遡ると、源頼朝に仕えた御家人の大宅光延の子息三人が、のちに高橋氏(光盛)、由比氏(光高)、西山氏(秀光)を名乗ったことから、三家は同じく大宅氏の流れを汲んでいます。
由比と西山の氏姓は厳密には別姓ですが、日興上人は『富士一跡門徒存知事』において、
「撰時抄一巻、今開して上中下と為す。駿河国西山由井某に賜ふ。正本は日興に上中二巻之在り、下巻に於ては日昭の許に之在り」(御書一八七〇)
と記されていることから、河合殿が西山殿あるいは由井氏と称したと考えられます。
 この御書を賜った「西山由井某」については、のちに日興上人のもとに『撰時抄』の正本上中二巻が伝えられた経緯からしても、外祖父の河合入道殿が、その人物として最もふさわしいと考えられます。

河合入道殿の入信と、その一族について

 河合入道殿が入信した時期について考えますと、前掲した『弟子分本尊目録』『富士一跡門徒存知事』のほか、河合入道殿が建治二(一二七六)年二月五日に大聖人から賜った御本尊の脇書に、
「建治二年二月五日、(興師加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、(今切去りて無し)、(首題の下に)本門寺に懸け万年の重宝たるなり、(代師か加筆)入道の孫由井五郎入道譲り得る所なり大宅氏女の嫡子犬法師に之を譲り与ふ」(富要八-二二〇)
とある日興上人等の加筆から推して、河合入道殿は日興上人が大聖人の弟子となられてから間もなく、南条時光殿の父や高橋入道殿が鎌倉の松葉ケ谷草庵などで大聖人にお会いしたころ、同じく日興上人の教化を受け、文永の初めごろには入信していたと考えられます。
 このことは『春之祝御書』に、
「このたびくだしには人にしのびてこれへきたりしかば、にしやまの入道殿にもしられ候はざりし上は力をよばずとをりて候ひしが、心にかゝりて候」(御書七五八)
とあるように、大聖人が文永十一(一二七四)年に鎌倉から身延に向かわれた事情を回顧され、翌年の正月に「西山の入道殿」と呼ばれて、西山入道殿にお会いできなかった理由を述べられたことからも伺うことができます。
 西山・由比・河合(川合)の氏姓(苗字)を称していた大聖人の弟子檀越について見てみると、日興上人の『弟子分本尊目録』等に、
「由井甚五郎本意□□口は日興第一の弟子なり。仍って申し与ふる所件の如し」
「富士西山河合四郎光家は、日興第一の弟子なり。仍って申し与ふる所件の如し」(歴全一-九二)
「富士上方河合入道の子息又次郎入道は、日興の叔父なり。仍って申し与ふる所件の如し」 (同)
「正安三年卯月八日、駿河の国由比大五郎入道二男□□□□」(富要八-二一〇)
と由比甚五郎、富士西山河合四郎光家のほか、日興上人の叔父に河合入道殿の子息の又次郎入道がいたことや、由比大五郎入道二男某などもその縁者であったようです。
 さらに元弘三(一三三三)年二月の『日興上人御遷化次第』によりますと「由比四郎入道」「西山彦八」「由比大九郎」「由比大五郎」「由比孫五郎」「由比弥五郎」とあります。このように、河合入道一族は、日興上人の教化のもとに大聖人の正法を信受して御本尊を賜り、信心を貫いたのです。
 一族からは、日興上人の弟子となる者も輩出しました。『弟子分本尊目録』には、
「駿河国富士上方の河合少輔公日禅は、日興第一の弟子なり」(歴全一-八九)
と記された本六僧の一人、大石寺南之坊開基の日禅師のほか、新六僧の日代師や日善師、日助師も縁者でした。

大聖人・日興上人の河合入道殿への教化

 河合入道殿をはじめ、その縁者達が大聖人から賜った御書は『撰時抄』のほか、現在、八通が伝えられています。
①『三三蔵祈雨事』(御書八七三)
②『蒙古使御書』(同九〇九)
③『宝軽法重事』(同九八九)
④『西山殿御返事』(同一〇七二)
⑤『西山殿御返事』(同一一〇一)
⑥『法華経二十重勝諸教義』(同一一九〇)
⑦『かわいどの御返事』(同一四六五)
⑧『西山殿後家尼御前御返事』(同一五八三)
 また、日興上人の御消息にも河合入道殿の縁者と見られる人物が確認できます。例えば、日興上人の『にし殿御返事』は孟蘭盆の御供養を届けられた、
「にしとの」(歴全一-一〇七)
に宛てられたものです。この人物がだれなのか特定できませんが、河合入道殿の住んだ西山の有縁の信徒であったと推察されます。
 また嘉元三(一三〇五)年十月二日の『与了性房書』に、
「ゆい殿へ状をまいらせんとして候へば、ふけうに御立ち候由申して候間、其の旨を存て候」(同一一七)
とあり、日興上人は、由井殿に書状を認めようとされましたが、事情により弟子の了性坊日東師宛に書状を認めたと仰せられています。日興上人は『与由比氏書』にも、
「由比殿御元江」(同一七七)
と、孟蘭盆会に当たり、由比殿から届いた御供養の品々を、
「仏聖人の御座候座」(同)
と大聖人の御宝前にお供えされています。ここからも日興上人が由比殿を教導された姿を伺うことができます。
 さらに日興上人の『曽祢殿御返事』に、
「芋殻、聖人の御見参に入れ参り候い了んぬ。聖人、川合入道の事思い入りて仰せ給い候」(同一六一)
とあります。
 日興上人は、甲斐国曽祢(現山梨県甲府市)に住んでいた曽祢殿から、歳末に届いた御供養(里芋の葉柄)を御本尊、大聖人御影のまします御宝前にお供えして大聖人へ、さらに河合入道殿を偲び御回向申し上げたと認められています。お手紙の内容からは、曽祢殿と河合入道殿との血縁関係など、その背景を詳しく伺うことはできませんが、御本仏大聖人への御報恩はもとより、日興上人が、終生、養育の恩深き祖父河合入道殿への孝養を心に留め置かれていた姿が拝されます。