歴史の中の僧俗
  
池 上 兄 弟 3
  
 父の逝去

 父康光を正法へと導いた宗仲・宗長は、その後も身延の大聖人のもとへ御供養をお届け申し上げ、様々な問題について御指南を賜り、純粋な信心を貫きました。
 こうした様子について、弘安元(一二七八)年十一月二十九日の『兵衛志殿御返事』には、
「なによりもゑもんの大夫志ととのとの御事、ちゝの御中と申し、上のをぼへと申し、面にあらずば申しづくしがたし」(御書一二九五)
と仰せられていることから、兄弟は主君からも厚い信頼を得て、信心に励んでいた様子がうかがえます。
 このような正法受持の功徳に包まれた池上氏の家長・父康光は、翌年の弘安二年二月、安祥として臨終を迎えました。
 逝去の報せを受けた大聖人は、同年二月二十八日に『孝子御書』を認められました。
「兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将又薬王・薬上の御計らひかのゆへに、ついに事ゆへなく親父の御かんきをゆりさせ給ひて、前に立てまいらせし御孝養、心にまかせさせ給ひぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経・十羅刹も御納受あるべし」(同一三五三)
と仰せのように、大聖人は池上兄弟が難難辛苦を退けて、康光を即身成仏へと導いたことを、あたかも「浄蔵・浄眼の後身か、はたまた薬王・薬上菩薩の計らいではなかろうか」
と称賛されました。そして同抄に、
「兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず」(同一三五四)
と仰せられ、これからも、兄弟が手を取り合い、力を合わせて、信心根本に物事に対処していくように御教示されています。

八幡宮造営をめぐって

 その後、信心修行に邁進する池上兄弟に、新たな問題が起こります。
 弘安四年の春、前年に火災によって焼失した鶴岡八幡宮の造営が始まり、康光の代から作事奉行という幕府の重要な役目を受け継いでいた兄弟二人は、その任務を命じられます。しかし兄弟を怨嫉する者の策謀・讒奏によって、八幡宮造営の役務から外されることとなったのです。
 こうした状況をかねてより予想されていた大聖人は『八幡宮造営事』を認められ、兄弟を教導されました。
初めに大聖人は、
「さては八幡宮の御造営につきて、一定ざむそうや有らんずらむと疑ひまいらせ候なり。をやと云ひ、我が身と申し、二代が間きみにめしつかはれ奉りて、あくまで御恩のみなり。設ひ一事相違すとも、なむのあらみかあるべき。わがみ賢人ならば、設ひ上よりつかまつるべきよし仰せ下さるゝとも、一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし」(同一五五六)
と仰せられ、池上兄弟に対し「父康光から二代にわたって仕えてきた主君は深い御恩のある人である。一度の約束が違えたとしても、どうしてその主君をいい加減に思うようなことがあってよいものか。まして賢人であれば、主君の仰せつけであっても一応は辞退すべきものである」
と訓誡されました。
 そして、仏法上の意義から、
「八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします。衛門の大夫は念仏無間地獄と申し、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ、其の堂をやきはらひ、念仏者のくびを切れと申す者なり。かゝる者の弟子檀那と成りて候が、八幡宮を造りて候へども、八幡大菩薩用ひさせ給はぬゆへに、此の国はせめらるゝなりと申さむ時はいかゞすべき。然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに、御造営の大ばんしゃうをはづされたるにやあるらむ。神宮寺の事のはづるゝも天の御計らひか」(同一五五七)
と仰せられています。すなわち大聖人は「八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏であり、念仏無間と言って阿弥陀仏を破折する大聖人の弟子檀那である衛門大夫殿(宗仲)が八幡宮を造営すれば、八幡大菩薩はそれを用いなかったため、日本は蒙古に攻められるような結果を招いたと世間の人々は悪口するであろう。それを天がかねて御存知であったので、あなたをこのたびの造営の棟梁から外されたのだろう。諸天善神の計らいにほかならない」と御教示されたのです。

 大聖人の池上邸での御滞在

 『八幡宮造営事』の冒頭には、
「此の法門申し候事すでに廿九年なり。日々の論義、月々の難、両度の流罪に身つかれ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間年々に衰病をこり候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上齢既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき」(同一五五六)
と仰せられ、大聖人は御自身のお身体の不調を池上兄弟に知らされていました。長年にわたる死身弘法のお振る舞いによって、大聖人の御身は著しく衰弱していたのです。
 兄弟がかねてから大聖人の病状を伺っていたことは、弘安元年十一月二十九日の『兵衛志殿御返事』に、
「去年の十二月の卅目よりはらのけの候ひしが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて候ひしが、すこしく平癒つかまつりて候へども、やゝもすればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。ましてわたうすく、たゞぬのものばかりのものをもひやらせ給へ。此の二つのこそでなくば今年はこゞへじに候ひなん」(同一二九五)
と仰せのように、池上兄弟は大聖人からの病状を察し、小袖や惟子などの衣類の御供養をお届けしていたことが解ります。兄弟とその夫人達は大聖人の御快復を懸命に祈り唱題していたことでしょう。
 弘安五年九月に入ると、お弟子方の熱心な勧めもあり、大聖人は、身延から常陸国へ湯治に赴かれることとなりました。
 この湯治に先立ち、大聖人は『日蓮一期弘法付嘱書』をもって日興上人を本門弘通の大導師と定め、唯授一人の血脈を相承されました。
 そして大聖人は、弘安五年九月八日に、九ヵ年住まわれた身延を出発されました。
 その道中、九月十八日に立ち寄られたのが、武蔵国(東京都大田区)の池上宗仲の邸宅でした。池上兄弟は、大聖人の御来訪にどれほど感激したことでしょう。
 また、大聖人の池上逗留を伺い知った関東近隣の弟子・檀越も参集したことは想像に難くありません。そうしたなか、大聖人は重病の身を押されて、弟子・檀越達に対して『立正安国論』を御講義されたのです。

 大聖人の御入滅

 十月八日に本弟子六人を定め、十月十三日、『身延山付嘱書』をもって日興上人に身延山久遠寺の別当職(一山の統括者)を付嘱された大聖人は、同日辰の刻(午前八時ごろ)、弟子・檀越が唱題をされるなか、安祥として入滅あそばされ、末法出現の御本仏として非滅現滅の相を示されました。
 翌十四日は、日興上人の指揮のもとに葬儀が厳修されました。既に本誌本年九月号において日興上人御筆の『宗祖御遷化記録』(御書一八六三)から紹介したように、宗仲は幡を、宗長は太刀を捧持して葬送に列なりました。
 大聖人が池上の地で入滅されたことについて、総本山第二十六世日寛上人は『蓮祖義立の八相』において、
「夫れ釈尊は、霊鷲山に於て、妙法を演説し、霊山の艮に当る跋提河の辺り沙羅林にして、入滅したまへり。聖人は身延山に於て、妙法を講諭し、延山の艮に当る田波河の辺り池上邑にして、寂に帰す。古今道同じく、応に所以有るべし」(富要三―二四八)
と御指南されています。つまり、インドに誕生した釈尊は、法華経を説かれた霊鷲山から艮の方角(北東)に当たる跋提河の辺で入滅しました。大聖人が御入滅あそばされた池上邸の地も同じく身延山の艮の方角に当たる多摩川の辺です。ここから、仏法上の不思議の因縁が拝せられます。
 私達は、池上兄弟がいかなる困難が立ちはだかろうとも、大聖人の御指南を常に仰ぎ、信心根本に励んだ純粋な姿を見習うべきです。
 現代に生きる私達も、常に御法主上人猊下の御指南を根本として、日々の信行に励んでいくことが肝要です。
(おわり)