歴史の中の僧俗
  
池 上 兄 弟 1
  
 はじめに

 池上兄弟は、兄を右衛門太夫宗仲と言い、弟を兵衛志宗長と言います。兄弟の父親は、池上左衛門太夫康光と言い、伝承によれば、鎌倉幕府の作事奉行(造営・修繕などの土木管理の役目)として仕えていたようです。
 池上家は、もともと藤原氏を本姓としていましたが、武蔵国千束池の上(荏原郡千束郷・東京都大田区)に住んでいたことから、池上氏を名乗ったと伝えられています。
 池上兄弟の母は、六老僧の一人、日昭の姉で、池上兄弟は日昭の甥に当たります。こうした縁によって、兄の宗仲は、大聖人が建長五(一二五三)年四月二十八日に宗旨建立されてから三年後の建長八年ごろ、四条金吾、工藤吉隆などの有力な檀越達と同時期に入信したと考えられます。それから間もなく弟の宗長も大聖人に帰依したと推測されます。
 ただし、父の康光は当時、鎌倉で名をはせた真言律宗の極楽寺良観の熱心な信者でした。
 ですから康光は、大聖人が良観に対して、
「三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(極楽寺良観への御状・御書三七六)
と「僣聖増上慢」「国賊」と破折されたことを憎み、その大聖人に帰依した兄弟の信心を強く反対します。特に宗仲は、父から二度にわたる勘当を受けますが、兄弟夫婦は力を合わせて父親を折伏します。そして勘当を解かれただけではなく、ついに父親を大聖人に帰依させ真実の孝養を果たします。

池上兄弟の賜った御書

 池上兄弟は大聖人から、十七通も
の御書を賜っています。
①兄弟抄(建治二年四月)
②兵衛志殿女房御書(建治三年三月二目)
③兵衛志殿御返事(同年六月十八日)
④兵衛志殿御返事(同年八月二十一日)
⑤兵衛志殿女房御返事(同年十一月七日)
⑥兵衛志殿御返事(同年十一月二十日)
⑦兵衛志殿御返事(弘安元年五月)
⑧兵衛志殿御返事(同年六月二十六日)
⑨兵衛志殿御書(同年九月九日)
⑲兵衛志殿御返事(同年十一月二十九日)
⑪孝子御書(弘安二年二月二十八日)
⑫両人御中御書(同年十月二十日)
⑱兵衛志殿女房御返事(同年十一月二十五日)
⑭右衛門大夫殿御返事(同年十二月三日)
⑮大夫志殿御返事(弘安三年十二月初旬)
⑯八幡宮造営事(弘安四年五月二十六日)
⑰大夫志殿御返事(同年十二月十一日)
 残念ながら『兄弟抄』以前の御書は伝わっていないため、入信間もないころの池上兄弟の信心の姿を知ることはできませんが、大聖人は宗長とその妻に宛てて多くの御書を認められ、夫妻の信心を督励されています。このことより、入信当初は兄の宗仲のほうが信心堅固だった様子がうかがわれます。父は極楽寺良観に傾倒していたため、宗仲を勘当して、弟夫妻達の信心を退転させようと画策したのです。
 こうした状況を深く配慮された大聖人は、兄弟夫妻に数々の御指南を認められ、信心を全うするよう御教示されたのです。大聖人御入滅に際し認められた日興上人の『宗祖御遷化記録』には、
「地頭衛門大夫宗仲」(同一八六三)
とあるように、兄が池上氏の棟梁として外護の誠を尽くしたことや、兄弟が大聖人の葬送行列で、
「幡 右 衛門大夫」(同一八六四)
「御大刀 兵衛志」(同一八六六)
と幡・太刀を奉持し守護したことが判ります。

 『兄弟抄』に見る父の反対

 文永十一(一二七四)年に三度目の国諌後、大聖人は身延に隠棲されますが、さらに門下の有力檀越に様々な弾圧が加えられました。
 池上兄弟は、極楽寺良観の熱心な信者である父と、信仰上の対立が続いていました。建治二(一二七六)年になると、父が大聖人の信心をやめるように強く兄弟に迫りますが、兄弟は従いませんでした。そのため、兄の宗仲は、
「大夫志殿の御をやの御勘気」
(兄弟抄・御書九八四)
とあるように、父から勘当という形で大聖人への帰依をやめるように強く責められます。
 この状況を、大聖人に御報告申し上げた池上兄弟に対する御返事が同年四月の『兄弟抄』です。現在、本抄の断簡(第十四紙)が総本山大石寺に厳護されており、また、そこに振られた仮名は日興上人の御筆と拝されます。

 転重軽受の法門

 さて、大聖人は『兄弟抄』において、
「此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり」(同九八〇)
と、娑婆世界は第六天の魔王の所領であり、そこに住む人々はすべて第六天の魔王の眷属と明かされています。その上で、
「特に法華経を信ずる人々を第六天の魔王は悪道に堕とそうとし、例えば妻子や父母、あるいは主君、智者の身に入り信心を退転させようとする。このような現世の苦悩は、過去の謗法による罪科であるが、これは正法を修行する功徳により、未来の大苦を現在の小苦として受けているのである」(同取意)
と、転重軽受という法華経信受の大利益を説かれています。
 池上兄弟の苦悩は、大聖人の仰せのままに法華経の信仰を貫けば、父康光の言葉に背くことになる、ということでした。鎌倉時代では、父親の言葉は絶対的な命令と同じでした。
 大聖人は、このような兄弟の苦悩に対して、
「父の言葉に従って法華経を捨てるならば、あなた方兄弟だけではなく、父母までも阿鼻地獄に堕ちてしまうことになる。どうか大きな道心を起こしなさい」(同九八一取意)
と仰せられました。その上で、
「一切はをやに随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か。(中略)まことの道に入るには、父母の心に随はずして家を出でて仏になるが、まことの恩をほうずるにてはあるなり」(同九八三)
と、釈尊の出家を反対した父浄飯王の逸話を引かれ、仏法では信心を妨げる親に従わず正法を信受することが真実の孝養になると明かされました。そして、末法今世に正法を信受する困難について、
「何に況んや法華経の極理南無妙法蓮華経の七字を、始めて持たん日本国の弘道の始めならん人の、弟子檀那とならん人々の大難の来たらん事をば、言をもて尽くし難し。心をもてをしはかるべしや」(同九八五)
と説かれ、兄弟の信心を懸命に督励されています。
 さらに大聖人は、法華経を信受し、勘当という困難に立ち向かう兄弟二人を、法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる浄蔵・浄眼の説話等になぞらえ、
「兄弟は鳥の二つの翼、人の両眼のようなもので、どちらが欠けても大事を成すことはできない」(同九八六取意)
と、異体同心の信心に励むように御教示されました。さらに兄弟の妻達には、夫妻は影の身に添うように、今生も来世も夫の苦楽は妻の苦楽と心得なさいと督励されました。
 かくして、大聖人は『兄弟抄』の後半に天台の『摩訶止観』から三障四魔の文を引かれ、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。(中略)此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(同九八六)
と仰せられました。
 このように、大聖人から御慈悲溢れる長編の御書を賜った池上兄弟は異体同心して信心に励み、父の康光を諌めました。そして翌建治三年、兄の宗仲は勘当を許されたのです。
(つづく)