歴史の中の僧俗
  
阿仏房夫妻 4
  
 大聖人の佐渡配流赦免

 大聖人の佐渡での御生活は、文永十一(一二七四)年三月、鎌倉幕府からの赦免状が届き、終わりを告げます。
 赦免状は同年二月十四日に発せられ、佐渡には三月八日に到着しました。鎌倉幕府が大聖人を赦免した理由は『中興入道御消息』に、
「科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆり候ひてのぼりぬ」(御書一四三三)
と仰せのように、大聖人が無実の罪であることが明らかになり、『立正安国論』における自界叛逆難、他国侵逼難の予言が的中したことが、赦免の大きな理由となったと考えられます。
 これについて、北条得宗家一門をはじめ配下の家臣は、赦免に反対しましたが、執権・北条時宗の裁量により、赦免が決定されたのです。
 阿仏房・千日尼夫妻や国府入道、中興入道、一谷入道など、佐渡在住の法華講衆にとって、大聖人が流罪を赦免され鎌倉に帰還されることは喜ばしいことでしたが、約二年五カ月の間、お給仕申し上げ、親しく御教導を頂いた大聖人、日興上人との別れは、つらく寂しいものだったことでしょう。
 大聖人も、佐渡法華講衆との別れについて、
「さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし」(国府尼御前御書・同七四〇)
と、その御心境を吐露されています。
 こうして大聖人は、文永十一(一二七四)年三月十三日に真浦を出発し、信濃路を経て鎌倉に向かわれました。鎌倉へ戻られた大聖人は、その翌月、三度目の国主諌暁に臨まれました。しかし、
「いにしへの本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。本文に任せて且く山中に罷り入りぬ」(下山御消息・同一一五三)
と仰せのように、平左衛門尉頼綱は、謗法厳誡・正法受持の諌言を聞き入れなかったため、鎌倉を去る決意をされます。
 そして大聖人は、日興上人の勧めにより波木井実長の所領である身延の地(山梨県身延町)に向かわれ、同年五月十七日に身延に入山されました。
 大聖人は身延の地について、
「このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につゞく間、山さけて谷をうづみ、石ながれて道をふせぐ。河たけくして舟わたらず。富人なくして五穀ともし。商人なくして人あつまる事なし」(上野殿御返事・同一二七二)
と仰せられているように、身延は人里を離れた奥深い山中で、険しい山々と河川に挟まれた土地でした。
 大聖人が身延に入山されたことが伝わると、全国各地から弟子檀越が大聖人をお慕いし、身延の地に訪れて来ました。
 その檀越のなかには、はるばる佐渡から大聖人を渇仰恋慕して参詣する法華講衆もありました。
 こうして大聖人は、広宣流布・令法久住のために、身延の地で甚深の法門を講義して門下を育成し、富士山麓一帯の弘教を日興上人に任されたのです。

阿仏房・国府人道の参詣

 中世(鎌倉時代)の交通状況において、佐渡の法華講衆が身延まで、どのような経路で参詣したのかは判りませんが、二十日余りの日数であったと伝えられています。
 大聖人は『千日尼御前御返事』に、
「人は見る眼の前には心ざし有れども、さしはなれぬれば、心はわすれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(同一二五三)
と仰せられ、阿仏房の参詣を称賛されました。
 このように、大聖人を渇仰恋慕した阿仏房は、佐渡から三度も身延の大聖人のもとを訪れています。最初は文永十一年で、阿仏房は八十六歳でした。二度目はその翌年の建治元年で、八十七歳の時です。三回目は弘安元(一二七八)年の七月で、九十歳という高齢を押して参詣しました。
 特に弘安元年は、疫病が全国的に流行した時であり、決死の思いで参詣した阿仏房の赤誠の信心を、大聖人は心から称賛されています。
 前掲『千日尼御前御返事』の冒頭を拝読すると、阿仏房が七月六日に佐渡を出発しており、七月二十八日に本抄を認められたことが解ります。当時、佐渡から海を渡り、山河を越えて歩みを進める二十日間の旅路の厳しさは並大抵ではありません。
 さらに、阿仏房の年齢を思うとき、
「どうしても大聖人にお会いしたい」
という、ただならぬ覚悟が感じられます。このよう、に幾多の障害を乗り越え、御供養の金銭や千日尼からの心尽くしの干飯、身延の山中では得難い海苔やわかめを携え、身延に参詣したのです。
 なお、大聖人にお目通りがかなった阿仏房は、少しでも御奉公申し上げたいとの一心で、真心からのお給仕に励んでいます。

千日尼・国府尼への御教示

 また大聖人は、夫を身延の地へと旅立たせ、無事を祈りながら留守の守る夫人について、
「いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」(国府尼御前御書・同七四〇)
と仰せられ「たとえ夫人の身は、身延から遠く離れた佐渡の地にあっても、その心は既に私(大聖人)と共にある」と慈愛あふれる御教示をされています。夫人がどれほど歓喜し、励まされたことでしょう。
 大聖人は『阿仏房尼御前御返事』において、
 「いよいよ信心に励みなさい。大聖人の仏法を弘通するならば、必ず怨嫉などの諸難が起こるであろう。しかし、正法を受持する者は、必ず諸天が守護するのである」(同九〇六取意)
と、一層の信心を励まされています。
 さらに千日尼は、夫の阿仏房が大聖人のもとに参詣するたび、御供養の品々をお届けし、法門についてお伺いしています。
 大聖人はこれに対して、
「尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給ふ事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあにをとるべきや」(同)
と仰せられ、千日尼の求法の姿を称えられています。

阿仏房の臨終と法統相続

 阿仏房は、弘安二年三月二十一日に佐渡で、その尊い生涯を終えました。同年七月には阿仏房の子・藤九郎守綱は、大聖人に追善供養を願うため身延に父の遺骨を持参しました。
 大聖人は、
「故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷺山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(千日尼御返事・同一四七五)
と仰せられています。つまり「法華経の明鏡に照らして見れば、阿仏房は成仏して霊鷲山の多宝塔の中で東向きにおられる」と、阿仏房が御本尊の宝塔の中に住し、即身成仏を遂げたと御教示されています。
 さらに、大聖人は千日尼に対して「亡くなった阿仏房が帰ってこないことを嘆かわしく感じていることでしょう。急いで法華経を旅の糧とたのみ、霊山浄土で阿仏房に会いなさい」と仰せられ、阿仏房の死を悼むとともに、夫を亡くした千日尼に対し温かい心遣いをもって信心を励まされています。
 藤九即は、父の意思を継ぎ、母の千日尼と共に信心を貫きました。千日尼は子孫に見守られながら、正安四(一三〇二)年に逝去し、藤九即は、のちに出家し、自邸を寺院として寄進しています。
 そして藤九即の孫(阿仏房の曽孫・佐渡阿如寂房日満師)は、幼少時に日興上人の弟子となっています。日満師は信徒から厚く信頼され、日興上人入滅後、佐渡で折伏に励みました。

むすびに

 大聖人の御入滅後も、佐渡の法華講衆は、阿仏房と一族を棟梁として信仰に励みました。
 阿仏房夫妻が、常に師弟相対の信心を貫き、正法弘通に邁進した姿勢を、私達も見習わなくてはなりません。日々信行に励むことができる身の福徳に感謝し、報恩の折伏に邁進してまいりましょう。