歴史の中の僧俗
  
阿仏房夫妻 3
  
 大聖人の予言的中

 塚原問答から約一カ月後の文永九(一二七二)年二月十八日、佐渡に早船が着きました。
 この様子について『種々御振舞御書』に、
「二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合はせて、たすけさせ給へ」(御書一〇六五)
と記されているように、大聖人が本間重連に対して、近く自界叛逆難が起こると予言された通り、北条特輔の乱(二月騒動)が勃発したのです。
 この戦乱は、京都六波羅探題の北条時輔(時宗の異母兄)が時宗の執権就任を妬み、名越殿と呼ばれた北条一門の時章、ならびに教時の兄弟と結託し、時宗を討ち滅ぼそうとした事件です。謀反の計画を事前に察知した時宗は、同年二月十一日に時章・教時を討ち、十五日に時輔とその一族を滅ぼしたのです。
 塚原問答の際、大聖人の予言を信じなかった本間重連をはじめ、一門の者達は、この早船の報告を聞いて驚き、大聖人のもとに馳せ参じました。 重連は、大聖人に掌を合わせて念仏の邪義を捨てて帰依することを誓い、その晩、一門を率いて、早船で鎌倉へ上ったのです。
 ちなみに、時輔との結託を疑われ、謀反の罪で誅殺された時章と教時は大聖人の檀越である四条金吾の主君・江馬(北条)光時の兄弟でした。故に同年二月十一日の『関東御教書』(当時の記録文書)には、光時も謀反への荷担を疑われれば、厳しい処罰を受ける可能性があると記されています。
 当時の緊迫した様子は、建治三(一二七七)年六月の『頼基陳状』に、
 「頼基は去ぬる文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節伊豆国に候ひしかば、十日の申時に承りて、唯一人箱根山を一時に馳せ越えて、御前に自害すべき八人の内に候ひき」(御書一一三四)
とあります。ここに四条金吾は、主君に命を差し出す覚悟を示した八人の一人であったと記されています。その後、時章には謀反の意思が全くなく、無実(冤罪)であったことが判り、時章を殺害した武将五人は処分され、子息の公時に多大な所領が与えられました。
 かくして佐渡の人々は、大聖人の予言的中に驚愕し、
「此の御房は神道の人にてましますか、あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ」(種々御振舞御書・同一〇六六)
と畏敬の念を抱きました。
 また鎌倉幕府も大聖人の予言的中に恐れを抱きました。
 大聖人は『光日房御書』に、
「かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。此にやをどろかれけん、弟子どもゆるされぬ」(同九六〇)
と仰せられ、二月騒動の的中によって、竜口法難以来、入牢を余儀なくされていた日朗など、五人の弟子を幕府は解放しましたが、大聖人の佐渡流罪については赦免しませんでした。
 大聖人の予言的中によって、本間重連が大聖人に帰依した姿を目の当たりにした阿仏房夫妻が、より一層の確信を得て折伏弘教に励んだことは想像に難くありません。
 ともあれ、大聖人が文応元(一二六四)年の七月十六日に執権・北条時宗の父、時頼を諌められた『立正安国論』の予言通り、自界叛逆の難が起こり、さらに蒙古国による他国侵逼の難が、日本国に刻一刻と近づいていたのです。

一谷への移居

 間もなくして文永九(一二七二)年の夏頃、大聖人は塚原から一谷入道の館へと居を移されます。これは二月騒動の的中により幕府が大聖人の待遇改善を考慮したものだったとも考えられます。
 このことについて大聖人は『一谷入道女房御書』に、
「文永九年の夏頃、佐渡の石田郷一谷にいたが、日蓮を預かった名主は、公にも私にも、父母の敵よりも過去世からの敵よりも日蓮を敵視していた」(同八二九取意)
と仰せられています。このように、塚原問答で大聖人に完膚なきまでに破折された念仏者達は、大聖人に憎悪の念を募らせていました。一説には、阿仏房夫妻も塚原近くの住居を追われたと伝えられています。
 大聖人は、一谷入道夫妻について、
「宿の入道といい、その妻といい、使用人達といい、初めは日蓮を恐れていた様子だったが、前世からの宿縁があったのであろうか。次第に心の中で日蓮を不憫に思われる心が生じられたようだった」(同取意)
と仰せられています。
 しかし、文永十(一二七三)年の『呵責謗法滅罪抄』には、
「是へ流されしには一人も訪ふ人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少なからず」(同七一八)とあり、一谷で大聖人のもとにいたお弟子は、日興上人をはじめ七、八名に増えていました。
 したがって、大聖人の一谷での御生活は、
「預かり主の名主から、一谷入道夫妻が預かる食糧は少なく、弟子は多くいたので、わずか二口か三口の御飯を、折敷(木製の角盆)に分けて食べたりしていた。そうしたところ、宅主である一谷入道は、外面では日蓮を恐れていながら、内心は日蓮や弟子達を不憫に思い、気遣ってくださる心があった。このことは、いつの世にも忘れることがない」(一谷入道女房御書・同八二九取意)
とあり、大聖人が食糧にこと欠かれている様子を見た一谷入道が、陰ながら支援していたことがうかがわれます。そのことを大聖人は、「当時は父母以上の大事な方々であった」と心から深い感謝の念を述べられています。
 ただし、一谷入道は、大聖人やお弟子を不憫に思う心を生じていましたが、
「然れども入道の心は後世を深く思ひてある者なれば、久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり。地頭も又をそろしなんど思ひて直ちに法華経にはならず。是は彼の身には第一の道理ぞかし。然れども又無間大城は疑ひ無し」(同八二九)
と仰せのように、入道は阿弥陀堂を邸内に建立するような念仏者でしたから、大聖人に心を寄せながらも、念仏をきっぱりと捨てることはできなかったのです。
 同時に、一谷に移られた大聖人のもとに、阿仏房夫妻が御供養の品を携えて訪ねることが、一段と厳しい状況にあったことがうかがわれます。
 また、大聖人は 「預かりたる名主」「宿の入道」とは別人であると記されていますから、大聖人の身を預かる実際の名主は、大聖人を憎む佐渡の念仏者であったと考えられます。

佐渡法華講衆のひろがり

『中興入道親子』
 一谷に移られた大聖人を幕府や念仏者は、厳しく監視していましたが、その一方で新たな法華講衆が誕生し、佐渡の弘道は拡大していきました。まず、中興入道親子の帰依があります。
 総本山第五十九世日亨上人は、
「佐渡の国中方面、中興に在って本間の家人であった。初め念仏の熱心な信者であったが、文永九年、大聖人が一谷に移住なされた時に帰伏した。身延入山の後も屡屡音信を寄せて御教化を仰いだもののようである」(弟子檀那等列伝)
と解説されています。『中興入道御消息』 には、
「日蓮を怨む人々が鎌倉よりも多い佐渡で、中興入道殿の父は佐渡の人々から人望も厚く身分のある人だった。故に、この御房はいわれのある大事な方に違いあるまいと、子息達にけっして過ちを犯してはならないと厳命された」(御書一四三二取意)
と仰せられています。父の次郎入道は大聖人に帰依して外護するとともに、中興入道も父の意思を継いで大聖人を生涯、外護しました。

『国府入道殿夫妻』

 さらに、大聖人を外護していた有力な佐渡の法華講衆として国府入道夫妻がいます。日亨上人は、
「国府入道、同尼御前は佐渡の国中の国府に住した人であり、夫妻共に大聖人を外護した純信の信者である」(弟子檀那等列伝)
と解説されています。大聖人は『国府尼御前御書』において、
「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはゞからず、身にもかわらんとせし人々なり」(御書七四〇)
と仰せられ、夫妻の佐渡における真心からの外護を感謝されています。国府入道は建治元(一二七五)年四月十二日に『国府入道殿御返事』(御書七九五)を賜っていますが、夫妻宛ての御書は二編のみで、詳しい事跡を知る手がかりは伝わっていません。佐渡配流中の大聖人を外護し、のちに身延におられた大聖人のもとに参詣しました。

佐渡へ訪れた檀越

 また文永十(一二七三)年五月には、女性の身でありながら、日妙尼が子供の乙御前と共に、はるばる佐渡の大聖人のもとへ訪れました。その深い志に対して、
「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云」(日妙聖人御書・同六〇七)
と「日妙聖人」と称えられました。
 さらに大聖人は『乙御前御消息』に、
「御勘気をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問ひ訪ふ人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来たり給ひし事うつゝならざる不思議なり。其の上いまのまうで又申すばかりなし」(同八九六)
と仰せられ、佐渡を訪れた乙御前が母(日妙尼)と共に純粋な信心を貫いたことを称賛されています。
 なお、文永十年五月頃、四条金吾も鎌倉から佐渡に渡り、大聖人のもとへ御供養の品々を届けたと伝えられています。
 こうして、一谷におられた大聖人のもとを有縁の檀越が訪れ、真心の御供養が届けられました。さらに阿仏房夫妻をはじめとする佐渡法華講衆の外護により、大聖人やお弟子方の生活が保たれていたのです。