歴史の中の僧俗
  
阿仏房夫妻 2
  
 阿仏房夫妻の入信機縁

 前回述べましたように、大聖人の佐渡配流中に帰依した法華講衆の魁は、阿仏房夫妻です。
 ここで阿仏房の入信機縁について少しだけ補足しますと、総本山第五十九世日亨上人は、
「大聖人佐渡御流罪の時は、日興一人能く万難を忍んで常随給仕し其の信行の熱烈なるは、本間の一族及び阿仏一家を動かしたる事は甚大で佐渡の仏法は上代に於ては純一に富士門徒であった」(弟子檀那等列伝)
と仰せです。すなわち日亨上人は、大聖人の佐渡配流に付き従った日興上人が、在島中、常随給仕されるとともに、折伏弘通に大いに尽力されたこと、特に日興上人が阿仏房一族や本間六郎左衛門を教化した甚大な功綾を称讃し、上代における佐渡の教練は富士門流の信心で占められていたことを指摘されています。
 このことは、他の日蓮門下でも、
「文永八年聖祖佐渡遠島の事あるや、(日興)上人また従て佐渡に渡り、在島三ヶ年常に師側に侍して、薪水の労に服す。阿仏房等上人の化縁、佐渡に存するものあるは是が為めなり」(日蓮宗宗学全書二-一)
とあるように、日興上人が大聖人の佐渡配流に付き従い、約三年間、常随給仕し、その傍ら阿仏房など、佐渡法華講衆の教化に尽力した功績を認め、富士門流に伝えられる佐渡での日興上人の御事跡を紹介しています。

 ただし、日亨上人は阿仏房の初発心について、
「大聖人の佐渡御流罪中、塚原三昧堂において論詰せんとして却って折伏せられ、御大法を聴き従来深信の念仏を捨てて全く帰伏し、在佐渡中、御給仕に努めた」(弟子檀那等列伝)
と仰せられ、阿仏房が大聖人を難詰しようとした際、大聖人から念仏の謗法を厳しく破折ざれて入信し、正法を固く受持したと御指南されています。
 そして前述のように、阿仏房は日興上人から信心の手ほどきを受けて大聖人の甚深の御教導を拝し、妻の千日尼、子息の藤九郎盛綱と共に正法を固く受持して信行に励み、大聖人、日興上人を生涯、外護申し上げたのです。

塚原問答

 このように、阿仏房夫妻と子息の藤九即も入信しましたが、塚原三昧堂に訪れる人は少数でした。それは常に大聖人の命を奪おうとする念仏者や真言師らの迫害と、役人の監視の目が厳しかったためと思われます。
 そのようななか、大聖人が塚原三昧堂に入られて二カ月余りを経過した文永九(一二七二)年一月に起こった事件が塚原問答です。大聖人はその様子を『種々御振舞御書』に詳しく示されています。
 すなわち大聖人が、
「佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人より合ひて僉議すと承る。聞こふる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房此の国にながされたり。なにとなくとも、此の国へ流されたる人の始終いけらるゝ事なし。設ひいけらるゝとも、かへる事なし。又打ちころしたれども、御とがめなし。塚原と云ふ所に只一人あり。いかにがうなりとも、力つよくとも、人なき処なれば集まりていころせかしと云ふものもありけり。又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、しばらくきられず、終には一定ときく。又云はく、六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべしと云ふ。多くの義の中にこれについて守護所に数百人集まりぬ」(同一〇六四)
と仰せのように、佐渡に住んでいた持斎の法師や念仏者である唯阿弥陀仏、生喩房、印性房、慈道房など、数百名にも及ぶ諸宗の僧侶達が集まり、佐渡の守護代である本間六郎左衛門尉重連の同意を得て、塚原三昧堂の大聖人を襲撃迫害して惨殺せんとする謀議(僉議)を計っていたのでした。
 しかし守護代の重連は、諸宗の僧侶達に「幕府からは大聖人を殺害してはならないと命令を受けている。そのような流人を殺そうとすれば、私自身の大きな責任問題となる」と、その襲撃を制止し、正月十六日に大聖人と諸宗の僧達との間で、法論での公場対決が行われる運びとなったのです。
 かくして正月十六日には、
「佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集まれる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり。念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは、聞こふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしりさはぎひゞく事、震動雷電の如し」(同)
とあるように、諸宗の僧俗は、佐渡にとどまらず、越後(新潟)から越中(富山)、さらに出羽(秋田・山形)や奥州(東北地方)、信州(長野)からも大挙して押し寄せ、大聖人を「阿弥陀仏の敵」と詈り、騒ぎ始めたのです。
 この場には本間重連の一族郎党や島民も、法論の行く末を見守るため集まっていました。もちろん、阿仏房夫妻や藤九郎達も、大聖人を命懸けでお守りするため、決死の覚悟で駆けつけていたことでしょう。
 大聖人は、錯乱した他宗の僧俗達をしばらく静観されていましたが、「諸宗の人々よ、静まりなさい」とお言葉を発せられ、問答が始まりました。そして、次々に念仏や真言の邪義について、あたかもよく切れる剣で瓜を切り、大風が草木をなびかせるように破折されました。
 大聖人は、
「天台の者よりもはかなきものどもなれば(中略)仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ」(同)
と仰せられ、比叡山天台宗での論義問答にすら及ばない念仏者、真言師の低劣な仏法理解を打ち砕かれたことを御教示されています。
 さらに、大聖人は念仏者に対して中国浄土宗の善導が柳の木から落ちて悶え苦しんで死んだ史実を示され、真言師に対しては、空海が海上から投げた三鈷(金属製の法具)が高野山で見つかったとする伝説や、空海の身が変じて大日如来と現れたなどという妄語を指弾されました。
 こうして大聖人に完膚なきまでに破折された諸宗の僧侶達は、悪口罵詈だけを述べ続ける者を除き、その多くが閉口して顔色を失い、「念仏は間違っている」と自ら述べる者や、その場で自宗の袈裟や平念珠を捨て「二度と念仏は申しません」と誓状を書いて、大聖人に奉る者すらあったのです。
 この塚原問答をじっと見守っていた阿仏房夫妻は、いよいよ大聖人への信心を深くしたことでしょう。
 塚原問答に勝利された大聖人は、その場を立ち去ろうとした本間重連を呼び止められ「あなたはいつ鎌倉へ上られるのか?」と尋ねられました。重連は「下人共に田畑の作業をさせて、七月頃か」と答えましたが、大聖人は、
「只今いくさのあらんずるに、急ぎうちのぼり高名して所知を給はらぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべし」(同一〇六五)
と仰せられ、近く鎌倉幕府に内乱が起こることを予言されたのです。
 重連をはじめ、そこに居合わせた念仏者や在家の者達は、にわかには大聖人のお言葉を信じられませんでしたが、このお言葉通り、約一カ月後に北条一門の同士討ち(北条時輔の乱)、すなわち自界叛逆の難が勃発し、大聖人の予言は的中したのです。
(つづく)