歴史の中の僧俗
  
阿仏房夫妻 1
  
 はじめに
 日蓮大聖人が、佐渡の法華講衆に与えられた御書は、現在まで十数編が伝えられています。
 これらの御書から、大聖人を外護申し上げた佐渡法華講衆に対する深い感謝と信頼が拝されます。すなわち佐渡の法華講衆は、大聖人御配流の間、ひそかに御供養をお届け申し上げ、外護を尽くしました。
 また大聖人が佐渡から赦免され、身延に入られたあとも、佐渡からはるばる御供養の品々を背負って、身延におられた大聖人の草庵を訪れています。こうした姿から、大聖人への真心を込めた御供養の精神と、純粋で強靭な信仰がうかがえます。こうした佐渡法華講衆のなかで、最も早い時期に大聖人に帰依した檀越が阿仏房・千日尼夫妻です。

阿仏房・千日尼夫妻

 一説によりますと、阿仏房は、承久三(一二二一)年五月に勃発した承久の乱に敗れ、隠岐に流された後鳥羽上皇、土佐流罪の土御門上皇と同じく、佐渡流罪に処された順徳上皇に仕えた北面の武士で、俗名を遠藤為盛といい、和漢の典籍や歌道にも精通した文武両道の人物とされていますが、現在では佐渡土着の武士であったと考えられています。
 「阿仏房」の名は、順徳上皇が佐渡(真野)で崩御したのち、為盛はその御陵のそばに庵室を設けて入道となり、故上皇の冥福を祈り念仏を唱え続けたため、島民から阿仏房と呼ばれたと言います。また、その妻も「千日尼」と呼ばれ、その理由として、上皇が佐渡から都へ帰ることができるようにと真野の海辺で、千日の間、水垢離の祈願をしたとされ、その敬虔な姿を見た佐渡の人々は千日尼と尊称したとも伝えられています。
 このように、阿仏房夫婦は上皇を慕う純粋な真心を持った深い教養のある人物だったことが窺えます。
 なお、阿仏房が大聖人に帰依する以前、熱心な念仏の信者だったことは「阿仏房」の名がそれを雄弁に物語っています。
 また、大聖人が『呵責謗法滅罪抄』に、
「例せば此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(御書七一七)
と仰せになられたことからも、当時、佐渡には念仏の信者が多かったことが解ります。

大聖人の佐渡配流

 ここで大聖人の佐渡配流までの経緯を拝しますと、文永八(一二七一)年九月十二日の夜半、無実の大聖人を捕らえて斬首しようとした平左衛門尉頼綱をはじめとする武士達は、法華守護の諸天善神(月天子)の威光を目の当たりにして逃げまどい、ついに大聖人を竜口で斬首することはできませんでした。これこそ大聖人が、法華経の行者として法華経の文々句々を身で読まれ、外用・上行菩薩の再誕としての垂迹身を払い、内証・久遠元初の御本仏としての本地を開顕され、凡夫即極の仏身を明かされたのです。
 このことを大聖人は『開目抄』に、
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり」(同五六三)
と仰せられています。
 かくして、大聖人の御身は竜口から依智(現在の神奈川県厚木市)の本間六郎左衛門の邸宅に預けられ、頼綱らは大聖人を佐渡配流に処することを決めました。
 後述しますが、当時の佐渡は鎌倉から遠く離れた辺境の島であり、冬の寒さの厳しい流刑地でしたから、大聖人を佐渡に流せば、おのずと命を落とすに違いない、との思惑による処置でした。大聖人は、お供の日興上人や少数のお弟子と共に同年十月に依智を出発し、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市)に宿泊されます。翌日からは、当時の鎌倉道を通り碓氷峠を経て十月二十一日に寺泊(新潟県長岡市)に着かれました。
 現在も、この頃の日本海は荒模様ですから、当時も大聖人は波浪の静まるのを待って寺泊を立たれ、十月二十八日に佐渡の松ケ崎に着かれたと考えられます。そして、十一月一日に配所の塚原三昧堂に入られました。

当時の佐渡と塚原三昧堂

 ところで佐渡は『続日本紀』によると、神亀元(七二四)年の聖武天皇の時代に遠流の地である伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐とともに、極めて自然環境の厳しい流刑地に定められていました。このほか、中流(諏訪・伊予)や近流(越前・安芸)などの流刑地もありました。大聖人が当時の佐渡について、
「佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は死は多く、生は希なり」(法蓮抄・同八二一)
と仰せのように、佐渡に流された多くの罪人が命を落としていました。
 配所である塚原の地は守護代・本間六郎左衛門の邸宅の付近にあり、死人を葬る所(墓地の一角)でした。そこにあった三昧堂は一間四面の小さな堂で、元々、人が生活できるような建物ではなく、長い年月、放置されたまま荒れ果てていました。
 大聖人は『種々御振舞御書』に、
「十一月一日に、本間六郎左衛門尉の家の付近の塚原という山野の中にある三昧堂に入りました。そこは、京都にある蓮台野のように、死人を捨てる場所に立てられた、一間四面ほどの広さで仏像も安置されていない荒れ果てた堂でした。屋根の板は隙間だらけで、四方の壁も破れていました。
 堂の中まで雪が降り積もり、消えることもありませんでした。このような場所で、寝ることもままならず、敷皮を敷いて、蓑を着て夜を明かし日を暮らしました。
 夜になると、雪や雹、稲妻が絶えず、昼は日も差しません。とても心細い住居でした」(同一〇六二取意)
と、その様子を克明に記され、また、
「堂には仏像もなく、むしろや畳など、一枚もありません。法華経を手に握り、蓑を着、笠をかぶって生活しました。訪れる者もなく、食料もありませんでした」(妙法比丘尼御返事・一二六四取意)
とも仰せられています。このような過酷な環境のなかで、命をつながれていたことが拝されます。また、着るべき法衣すら乏しいなかで極寒を忍ばれつつ、配流の御生活を過ごされたことが拝されます。

阿仏房夫妻の入信帰依

 流人の身として、大聖人は絶えず生命の危険にさらされていましたが、土着の島民や流人のなかで、阿仏房夫妻をはじめとする人々が大聖人の御尊容を拝し、その謦咳に接して教化を受けることとなりました。
 阿仏房は「流人・日蓮房」の噂を聞いて、阿弥陀仏を冒涜する悪僧を自分の手で害せんと、ひそかに三昧堂を伺いました。しかし、堂内に端座して静かに読経・唱題される大聖人の御尊容を拝し、またその大慈悲の御教導に浴して念仏の信仰を捨て、妻の千日尼と共に帰依したのでした。
 それからは、阿仏房夫妻は人目をしのんで夜中に大聖人のもとを訪れ、食物をはじめ、紙・硯・墨など、種々の御供養を申し上げました。
 佐渡の念仏者達は、大聖人を亡き者にしようとその機会を虎視眈々とうかがい、大聖人を監視していました。
 彼らは、大聖人を佐渡で亡き者にしょうと企んだ幕府権力者達の意向を受けて、塚原三昧堂に近づく者を厳しく取り調べたと考えられます。まして、大聖人に食物を運んだことが発覚すれば、命にもかかわる厳しい処罰を受け、一族も無事ではなかったことでしょう。
 因習の深い、しかも念仏信仰の強い地で、流人であった大聖人を師と仰ぎ、妙法の信心に踏みきることは、並大抵のことではありませんでした。
 阿仏房夫妻が強盛に信仰してきた念仏を潔く捨て、大聖人の正法正義に目覚めた姿からも、純信で質実剛健な人柄が垣間見られます。
 後年、大聖人は深い感謝の意をもって夫妻に宛てて御書を認められています。すなわち、阿仏房夫妻の強盛な信心について、
「いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生まれかわりて有るか」(千日尼御前御返事・同一二五三)
「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶらひ給ふか。不思議なり不思議なり」(阿仏房御書・同七九三)
と、深く賞賛されています。
(つづく)