日蓮正宗の歴史
 
6、昭和時代以降

 大正時代に勃発した第一次世界大戦によって、日本は大戦景気に沸きましたが、時が経過するにつれ、その景気も下火となって大正の恐慌となり、さらに大正十二年(一九二三)の関東大震災によって、日本の社会経済は大打撃を蒙りました。その後、経済は悪化の一途をたどり、昭和五年(一九三〇)の恐慌によって、その極みに達しました。このような社会情勢を受け、政府の力は急激に弱くなり、軍部の力が増大していくなか、同六年(一九三一)には満州事変、同十二年(一九三七)には日中戦争が起こりました。
 この頃より日本は軍国主義一色となり、軍部の圧力などによって、政府は明治以来の政策であった「国家神道」を国民にさらに強制し、同十四年(一九三九)には、宗教団体に対し国家による統制をはかるため、「宗教団体法」を公布しました。
 しかし、第二次世界大戦の終戦にともなって、同二十年(一九四五)十二月に「宗教団体法」は廃止され、これに代わって公布された「宗教法人令」では、信教の自由を保障して宗教法人の設立を単に届け出制にしたことから、新興宗教が数多く生まれることになりました。そこで政府は、これらの乱立を防ぐため同二十六年(一九五一)、「宗教法人令」を廃止して認証制の「宗教法人法」に変更しています。

昭和時代

  戦前の宗門
 宗門では、第六十世日開上人の代に、昭和六年(一九三一)の日蓮大聖人第六百五十遠忌に向けて全国巡教が行われ、客殿修繕をはじめとする記念事業が行われました。また同十一年(一九三五)には、三門の大修築が行われています。一方、御隠尊であった第五十九世日亨上人は、全国各地に赴いて宗史・宗学にかかわる資料を収集し、同十三年(一九三八)に「富士宗学全集」百三十四卷を、翌十四年(一九三九)には「富士宗学要集」十卷を編纂されています。また同年には、戦時色の増すなか、第六十二世日恭上人は信徒教化のため全国巡教をされました。

 このようななか、同十四年四月に公布された「宗教団体法」により、文部省は関連宗派を一つにまとめる政策を打ち出し、日蓮宗系の数多くあった宗派も「法華宗」「日蓮宗」「本化正宗」の三派に合同されることになり、日蓮正宗は日蓮宗への合同を強制されるという危機に晒されました。これに対し日恭上人は、単身で文部省に赴かれて合同不承知を訴えられるとともに、同十六年(一九四一)三月十日には、僧俗護法会議を大石寺御影堂で開いて日蓮門下合同の拒否を決議するなど、正法護持の尽力がなされました。その結果、日蓮正宗は同月三十一日、「日蓮正宗宗制」の単独認可を得て、日蓮宗との合同を免れることができたのです。


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朝日新聞 昭和16年4月1日付

  戦後の宗門
 昭和二十一年(一九四六)、国家の農地解放政策により、大石寺は全国各宗派寺院のなかで、最大規模の約二十七万坪の農地を失いました。しかし、第六十四世日昇上人の代、同二十三年(一九四八)十一月には客殿・六壷が建立復興され、さらに同二十八年(一九五三)に五重塔修復、翌二十九年(一九五四)に総門の修築、同三十年(一九五五)十一月に奉安殿が建立されるなど、戦後復興の進展が見られました。そして第六十五世日淳上人の代には、同三十三(一九五八)三月に大講堂が建立され、さらに第六十六世日達上人の代になり、大坊をはじめ、山内諸堂宇・参道などが新築整備され、また同三十九年(一九六四)四月には大客殿が、同四十七年(一九七二)十月には正本堂が落成しました。
 またこの間、日昇上人・日淳上人・日達上人により全国巡教が行われるとともに、「日蓮正宗聖典」「妙法蓮華経竝開結」「日蓮正宗富士年表」「昭和新定日蓮大聖人御書」「富士学林教科書研究教学書」の発刊など、数多くの出版が行われています。
 さらに第六十七世日顕上人の代に至り、同五十六年(一九八一)に日蓮大聖人第七百遠忌が奉修されるとともに書院が復興されました。翌年には日興上人・日目上人第六百五十遠忌が奉修され、また同六十三年(一九八八)には、東京都渋谷区に「富士学林大学科」が新設され、さらに同年十月には、大石寺開創七百年の記念事業の一環として六壷が再建されるなど、山内の総合整備が進められました。
 一方、末寺においては、同二十一年(一九四六)に讃岐法華寺が末寺十カ寺とともに日蓮正宗に帰一して寺名を「本門寺」と改称し、同二十五年(一九五〇)には富士下条妙蓮寺も末寺六ヶ寺とともに帰一しました。またこの頃までに、戦災により焼失した多くの末寺も大半が復興を果たして教会所の寺号公称も次々に行われ、さらに同三十二年(一九五七)には保田妙本寺(後に離反)と末寺四カ寺、日向定善寺と末寺五ケ寺がともに大石寺に帰一し、また全国に多数の末寺が建立されていきました。






  信徒組織の動向
 昭和三年(一九二八)、常在寺信徒・三谷素啓から折伏された牧口常三郎は、同十二年(一九三七)五月に東京麻布(港区)の菊水亭で「創価教育学会」の発会式を行い、同二十一年(一九四六)一月には、戸田城聖が同会を「創価学会」と改称し、二代目会長に就任しました。
 その後、戸田は宗門に対して「折伏した人は信徒として末寺に所嘱させること・当山の教義を守ること・仏法僧の三宝を守ること」の三箇条を遵守するとの約束のもと、同二十七年(一九五二)八月二十七日に東京都知事より宗教法人の認証を得ています。以来、創価学会は宗門の外護団体として活発な布教活動を展開していきました。
 しかし、池田大作が三代会長になると、次第に「学会が主・宗門が従」という考えが顕著となり、昭和四十年代に入ると池田は首脳幹部に小説『人間革命』を「現代の御書」といわせたり、「会長に帰命する」、「会長は久遠の仏である」などの「池田本仏論」を展開し、組織内に徹底指導させました。また池田自身も大聖人以来の唯授一人の血脈を否定する発言や、寺院軽視などの指導を行い、それらの邪義の極みは、ついに御本尊を勝手に模刻(八体)するという大謗法に至り、日蓮正宗の教義・信仰から大きく逸脱しました。
 これらの創価学会の教義逸脱は「宗門を支配するか、それができなければ分離独立する(昭和四十九年八尋・山崎文書、北條文書 趣意)」という陰謀の企てであり、「昭和五十二年路線」と呼ばれるものでした。
 これに対し、第六十六世日達上人のもと全国多数の僧侶による慈折教導が行われ、多くの学会脱会者が出たことなどから、池田は同五十三年(一九七八)十一月七日、総本山大講堂において、日達上人と宗門に対して謝罪し(お詫び登山)、翌年四月に創価学会会長と法華講総講頭の役職を引責辞任しました。
 日達上人は同年五月、創価学会の反省した内容が必ず実行されることを条件としたうえで「創価学会問題」の終局とされ、同年七月二十二日に御遷化されました。さらに第六十七世に登座された日顕上人は、日達上人の方針を継承されて学会の善導に心を砕かれましたが、その方針に従わない自称「正信会」は、我意・我説を主張し宗門の正しい信仰から離反していきました。
 なお、同四十九年(一九七四)には「戒壇」の意義に関して己義を主張し続けた「妙信講(後の顕正会)」が講中解散処分となっています。


平成時代

  創価学会破門
 平成二年(一九九〇)七月、日顕上人のもと「法華講三万総登山」が行われ、十月には大石寺開創七百年法要が奉修されました。
 その直後の十一月十六日、池田大作は衛星放送で全国の学会員に向けて、御法主上人の誹謗と宗門蔑視の発言を行いました。これは前の昭和五十三年(一九七八)十一月のお詫び登山における、日達上人及び宗門に対して約束した「反省懺悔」と「学会の軌道修正」を反古にする言辞で、法華講総講頭(昭和五十九年に再任)にあるまじき内容のものでした。
 これについて宗門は、平成二年(一九九〇)十二月十三日の双方代表者による「連絡会議」の席上、『お尋ね』文書によってスピーチの真意を尋ねようとしましたが、学会はこの文書の受け取りを拒絶し、さらに十六日に送付した同文書にも答えることなく、逆に『お伺い』という宗門を攻撃する文書を送りつけてきました。
 このような経過のなかで、宗門は同月二十七日に宗会を開き、従来からの懸案であった法華講役員の任期について『日蓮正宗宗規』の一部改正を行いました。これによって池田大作は、再び総講頭の資格を喪失することになりました。
 以来、創価学会は全組織を挙げて法主・宗門への中傷・誹謗を繰り返し、さらには僧侶を不要とする葬儀・法要を行い、塔婆・戒名も不要とするなど、本宗伝統の化法・化儀から大きく逸脱していきました。これは、昭和五十二年(一九七七)の「独立謗法路線」をさらに強く推し進めるものでした。そこで宗門は創価学会に対して、本来の日蓮正宗の信仰姿勢に立ち還るよう訓誡を重ねましたが、学会はこれに従う様子もまったく見せず、逆に宗門誹謗を繰り返しました。
 このため平成三年(一九九一)三月、宗門は今までSGI(創価学会インターナショナル)組織に委任してきた海外信徒の教導を直接行うこととし、また同年七月よりは、近年の一時的措置として学会組織をつうじて認可してきた総本山への登山も、所属寺院の発行する「添書」によって参詣するという本来の方式に戻しました。
 さらに同年十月に「通告文」を送って反省をうながしましたが、創価学会はかえってこれに反発し、御法主上人及び宗門に対してますます誹謗を重ねました。
 このため、本来の宗門外護の信徒団体としての姿をまったく失った創価学会に対し、自主的に解散するよう、同年十一月七日に「解散勧告」を行いました。しかし、創価学会はこれに従うどころか、たび重なる教導の制誡に対しても一片の反省懺悔も示さないため、もはやこれ以上、本宗信徒団体として放置しておくことはできず、同月二十八日、SGI組織とともに創価学会を「破門」としました。ただし、この破門処分は、あくまでも学会組織に対するものであり、個々の会員については日蓮正宗の信徒としての資格をいまだ残したものでした。
 この後創価学会は、観念文を改変した独自の経本を作成するなど、日蓮正宗の教義とは大きくかけ離れた邪義を掲げたため、宗門は、これらの謗法行為を重ねる創価学会の実質的な責任者である池田大作に対し、弁疏の機会を与えたうえで、翌四年(一九九二)八月二十一日に池田個人を「信徒除名処分」としました。その後、創価学会は『ニセ本尊』を作製し、同五年(一九九三)十月より販売をはじめ、ついに新興邪教団となり下がってしまいました。
 宗門は、この学会問題が顕在化してより七年後の平成九年(一九九七)九月三十日に、『宗規』の一部改正を行い、「本宗の檀信徒が本宗以外の宗教団体に所属したときは、その資格を喪失し、除籍される(趣意)」こととし、二ヶ月の猶予期間を設けて善導に尽くしました。そして同年十一月三十日をもって、創価学会に所属する者は、ついに信徒資格を喪失することになったのです。

 


 広布への前進
 第六十七世日顕上人は、御登座の際、「祖道の快復・異体同心の確立・広布への前進」との指針を示され、その実現の一環として創価学会問題を機に、平成四年(一九九二)五月より満四年間にわたり、全国三十四布教区に赴き御親教をされました。末寺においても平成三年(一九九一)以来、法華講信徒の増加により、「法華講支部」が全国に次々と結成され、さらなる広布への体制が整っていきました。
 平成六年(一九九四)には、宗門は僧俗和合による広布を目指して「地涌六万の年」と銘打ち、日顕上人のもと、元旦より宗門全僧俗が一丸となって六百億遍の唱題行を修し、四月二十八日には新六万塔が建立されました。また七月十六日には『平成新編日蓮大聖人御書』が発刊され、同月二十三日の広布坊建立に続き、翌日には「地涌六万恒河沙」の真義にもとづく法華講「地涌六万大総会」が総本山の広布の広場において盛大に挙行されました。さらに翌八月二十八日、世界二十六カ国より集った四千三百んの海外信徒によって「第一回海外信徒総会」が開催されました。
 そして同十年(一九九八)三月には客殿が再建され、全国法華講十万人の登山参詣をもって落慶大法要が行われました。さらに平成十四年(二〇〇二)の宗旨建立七百五十年には、「記念大法要」「法華講三十万総登山」「奉安堂建立」「記念出版」の四大事業をもって大佳節を慶祝するなど、日蓮正宗は宗祖大聖人の仏法を正しく護りつつ、御遺命実現を目指して着実な前進を続けています。