日蓮正宗の歴史
 
3、南北朝・室町・安土桃山時代

 元弘三年(正慶二年・一三三三)に鎌倉幕府が崩壊し、京都に政治の中心が移ったことから日蓮門下各派も京都に進出しました。日蓮宗各派は次第に教線を拡張し、大きな勢力となったため、天台宗の比叡山延暦寺からしばしば圧迫を受けるようになりました。さらに安土・桃山時代になると、謗法厳誡・他宗破折を旨とする日蓮宗徒の信仰姿勢は、ときには為政者と衝突することもありました。豊臣秀吉が催した大仏千僧供養会の場合も、日蓮宗内には、国主の招請を受けて出仕するか、あるいは謗法の供養を受けてはならないという信仰のうえから招請を拒否するか、という問題をめぐって不受不施論議が起こり、これによって後に「日蓮宗不受不施派」という一派ができました。
 一方、大石寺では、日興上人・日目上人の相継ぐ入滅と、南条家の相続問題から大石寺内の土地をめぐる係争などがあり、うち続く戦乱の余波を受けて教勢は一時削がれましたが、第四世日道上人をはじめ、第五世日行上人、第六世日時上人によって、国家諫暁・末寺建立・御書の伝承・法門書の著述などがはかられ、令法久住・正法護持の努力が続けられました。第九世日有上人の時代には、宗門としての体制も整い、万代にわたる化儀も明文化されました。さらに第十四世日主上人の代には、総本山大石寺と京都要法寺との関係が修復され、要法寺から第十五世日昌上人が登座されています。


第四世日道上人

 日道上人は、弘安六年(一二八三)、伊豆仁田郡畠郷(静岡県函南町畑毛)に出生され、正安元年(一二九九)十六歳で日目上人を師として出家して重須の日興上人にもお仕えされ、道号を「白蓮房」(伯耆房・後に弁阿闍梨)と称されました。
 日道上人は師の日目上人と同様に、南条家の縁戚にあり、奥州陸前国(宮城県)の登米地域と深い関係にあったことから、しばしば弘通のために奥州に足を運ばれ、嘉暦二年(一三二七)には、日目上人より奥州の上新田坊(後の本源寺)を譲られ、元弘二年(正慶元年・一三三二)には、宮野に妙円寺を創建しました。同三年(一三三三)正月には、武蔵国屈巣(埼玉県川里町)の崛須坊において、日興上人筆写の『法華本門取要抄』を書写されています。
 同年十月、日道上人は日目上人から血脈の付嘱を受けられ、大石寺四世として大坊に入られました。この年に、日蓮大聖人・日興上人・日目上人御三祖の史伝書の草案として『御伝土代』を著されています。
 建武元年(一三三四)正月には、日仙師・日代師との間に「方便品の読不読論諍」が起こり、日道上人は血脈継承の立場から、日仙師・日代師の説はともに誤りであると判定し、方便品を読誦する義理を明示されました。また延元元年(建武三年・一三三六)二月には、申状を認めて国家諫暁を行われています。日道上人は、延元四年(暦応二年・一三三九)六月、法を日行上人に付嘱し、興国二年(暦応四年・一三四一)二月二十六日、大石寺大坊において五十九歳で御遷化されました。


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  東坊地問題
 元弘三年(一三三三)十二月、日目上人の御遺骨を抱いて大石寺に帰山した日郷師に対し、日道上人はその労をねぎらい、一幅の御本尊を授与されました。しかしその後、日郷師は日道上人の許可なく、日目上人の住坊であった蓮蔵坊(東坊)に不法に住し、さらには南条時光の五男・時綱が蓮蔵坊を含む東坊地を日郷師に譲る旨の書状を勝手に出したことなどから、この土地の所有権を争う東坊地問題が起こりました。
 このため日郷師は、建武二年(一三三五)の秋に蓮蔵坊を退出し、小泉の法華堂(後の久遠寺・富士宮市)に一時身を寄せ、同年、安房吉浜(千葉県鋸南町)に法華堂(後の保田妙本寺)を創設しました。
 この東坊地問題はその後も紛糾しましたが、七十二年後の応永十二年(一四〇五)、第六世日時上人のときに全面的に大石寺に帰属することで解決しました。


  富士諸山の展開
 日興上人とその門下は、大石寺を万代広布の根源として教線の拡大に努め、各地に数多くの寺院を設立されました。
 それらの主なものとして、永仁六年(一二九八)には石川孫三郎能忠の寄進を得て、日興上人が重須談所(後の北山本門寺)を開設し、元享三年(一三二三)には秋山泰忠が建立した讃岐(香川県)本門寺に上蓮坊日仙師が赴任し、さらに正中元年(一三二四)には南条時光が自邸を寄進して妙蓮寺を開創し、寂日坊日華師を開基としています。
 日興上人の入滅後には、建武二年(一三三五)、薩摩阿日睿師が日向(宮崎県日向市)定善寺を富士門流に改め、また同年、東坊地問題により大石寺を退出した日郷師が保田妙本寺を創立するとともに、一時、止住した富士宮小泉に、その門下が久遠寺を開いています。
 さらに延元四年(暦応二年・一三三九)、日尊師は京都に要法寺の前身である上行院を開き、「方便品品の読不読論争」によって重須を去った日代師は、興国四年(一三四三)、西山本門寺を創立しました。
 またこのほかにも、弘安六年(一二八三)には奥州(宮城県)に上行寺と本源寺、同十年(一二八七)には妙教寺、嘉元元年(一三〇三)には会津(福島県)の実成寺、岩代(福島県)の満願寺、下総(茨城県)の富久成寺、武蔵(埼玉県)の妙本寺、同二年(一三〇四)に岩代の願成寺、同三年(一三〇五)に下野(栃木県)の信行寺・岩代の仏眼寺、正和元年(一三一二)に江戸の妙円寺(後の妙縁寺)、元弘二年(正慶元・一三三二)に奥州の妙円寺、正平十五年(一三六〇)に下野(栃木県)の蓮行寺、応永元年(一三九四)に駿河(静岡県)の蓮成寺、同五年(一三九八)に磐城(福島県)の妙法寺、さらに同九年(一四〇二)に磐城に蓮淨寺などが、御歴代上人をはじめとする門下の各師によって開創されています。




中興の祖・第九世日有上人

 日有上人は応永九年(一四〇二)四月、富士上野の南條家に出生され、幼少にして第八世日影上人の弟子となり修行研学に励まれました。やがて、日影上人より大石寺第九世の法脈を受けられた後、奥州から京都・越後などの諸国へ長期間にわたる布教をされるとともに、大聖人・日興上人等の申状を副えて幕府への諫暁を果たされ、富士門流の正統性を広く宣揚されました。
 また、その布教にともなって寺運興隆にも力を注がれ、大石寺においては応永三十一年(一四二四)の諸堂再建をはじめ、寛正六年(一四六五)二月に御宝蔵を校倉造りに改築し、同年三月に客殿を創建するなど、山内の整備に努められました。地方においては駿河(静岡県)の法華堂(後の本廣寺・要行寺)や甲斐(山梨県)の法華堂(後の有明寺)を建立され、東北地方などの寺院も数多く再建するなど、著しく宗勢を復興されました。
 さらに、多くの門弟を育成するとともに、大聖人と日興上人の法門に基づいて富士門流の化儀法式を整足して教示され、それらを弟子が『有師化儀抄』『日有上人御物語聴聞抄』『連陽房聞書』『下野阿闍梨聞書』等として筆録しています。特に『有師化儀抄』は当時の富士門流各山にも大きな影響を及ぼし、現在も日興上人の『遺誡置文』とともに総本山大石寺の山法山規の基をなしています。
 日有上人は、応仁元年(一四六七)に第十世日乗上人へ法を相承され、甲斐杉山(山梨県下部郡)の法華堂に移られましたが、日乗上人と第十一世日底上人の御遷化により再び登座され、文明十四年(一四八二)に第十二世日鎮上人へ法を付嘱され、同年九月二十九日、杉山において八十一歳で御遷化されました。
 この六十余年間にわたる布教の業績と偉大な薫徳は、宗門の「中興の祖」と仰がれ、その高徳を物語る伝説も多く残されています。その後、日鎮上人は、大永二年(一五二二)に御影堂・総門を建立され、さらに大石寺の諸堂を整備されました。



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 日有上人にまつわる伝説
○あるとき日有上人は、下部の湯へ湯治に行かれました。そこの湯の宿主にたくさんの子供がいたので、上人は「一人を弟子にしたい」と仰せられました。しかし宿主は嘘をつき、「自分の子供は一人だけで、他はよその子です」といって断りました。ところがその後、その家は代々、子供が一人しか生まれなくなりました。困ったその家の者が第十五世日昌上人にお願いして、日有上人の墓前に参詣し、昔先祖が嘘をついたことをお詫びしたところ、たくさんの子供を授かるようになったそうです。
○あるとき日有上人は、大家族で日頃から食べ物に困っている家に泊まられました。上人はその姿を見て、「かわいそうに、なんとか喜ばせてあげよう」と、笈のなかから一つの鍋を取り出し、袋から米を出して火にかけられました。するとそれを見ていた女中が「そんな少しの米では足りません」と笑いました。しかし、上人は平然と「火を炊きなさい」と命じられ、それを火にかけると、不思議にも炊くにしたがって見る見るうちにご飯が鍋いっぱいに溢れ出しました。家の者ははじめて腹一杯の御飯を食べることができたと、上人に感謝したそうです。
○日有上人のおられた大杉山は、本山大石寺から約十里(四十キロ)も離れています。しかし上人は、七日、十三日、十五日と本山の御講には、険しい山道を、石がはさまらない一本歯の下駄で歩き、必ず参詣していたと伝えられています。この山道は、今でも「上人路」といわれています。

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大石寺と要法寺との関係史

上行院と住本寺

 日目上人の天奏にお供をした太夫日尊師は、そのまま京都に留まり、延元四年(暦応二年・一三三九)四月、六角油小路(京都市中京区)に上行院を創立し、後にこれを弟子日印に譲って興国六年(貞和元年・一三四五)に没しました。
 この年に日尊師の弟子日大は、京都の西洞院(下京区)に法華堂を創立して上行院と別れ、さらに本辻(右京区)等にも法華堂を建立し、これらを後に合して住本寺としました。しかし、この日印の上行院と日大の住本寺は教義上における種々の対立を起こしながらも両寺一寺という関係を保ち、後にこれが合併して要法寺と称することになります。
 これと同時に日尊師の門流の信仰もいくつかの曲折がありました。日尊師の時代は、大石寺第四世日道上人に随従していましたが、日尊師の没後には、それらの気風は次第に希薄になっていきました。寛正七年(一四六六)二月、上行院・住本寺は比叡山からの迫害に対抗するために京都の法華宗諸寺と「寛正の盟約」を結んで「本迹一体の事」などの申し合わせをしたことにより、教義のうえからも大石寺と離れていきました。しかし、そのようななかで三位阿日芸や本是院日叶(後の左京阿日教師)などのように、要法寺から大石寺に帰伏する者もいました。


  要法寺日辰
 上行院・住本寺の両寺は、天文五年(一五三六)七月、比叡山衆徒による「天文法乱」で焼失したため、同十九年(一五五〇)三月、住本寺の広蔵日辰がこれらを合併して京都綾小路堀川(下京区)に一宇を再建し、「要法寺」と号しました。
 そして数年後、日辰は以前からの願望であった富士諸山の通用を画策し、西山本門寺・北山本門寺等を同意させ、さらに永禄元年(一五五八)、大石寺に対しても書を送り、通用を申し出ましたが、大石寺第十三世日院上人は、日辰の「釈迦像造立・法華経一部読誦論」が大聖人の正意でないことをもって、これを拒否されました。

  大石寺の末寺・要法寺
 しかし日辰の没後、天正十五年(一五八七)五月に至り、大石寺第十四世日主上人と要法寺日●師との間で、大石寺を本寺として要法寺を末寺とする本来の関係が修復されました。このとき、日主上人は要法寺に対し、日目上人の御本尊を「授与せしむる」との脇書をされて下付し、翌十六年(一五八八)には要法寺日●師が日主上人へ、日興上人の御本尊を「拝贈御納受においては云々」との文言を添えて納めています。
 この本末関係の修復により日主上人は、文禄三年(一五九四)八月に要法寺より大石寺に登られた日昌上人に対し、二年を経た同五年(慶長元年・一五九六)九月に法を付嘱されました。
 その後、大石寺第十五世となられた日昌上人の登座から、第二十三世日啓上人の代までの約百年間は、要法寺が大石寺の法門に随従し、両山に良好な本末の関係が続きました。

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  天文法乱
 比叡山の宗徒が京の日蓮宗徒を襲撃した事件であることから、「天文法華の法乱」ともいいます。越前加賀で強大化した一向一揆の勢力が天文元年(一五三二)に畿内に及び、京都町衆の間に勢力を持つ法華宗(日蓮宗)を討伐するとの風聞が流れたことにより、町衆が立ち上がり、法華一揆が形成されました。
 天文五年(一五三六)、比叡山の僧が日蓮宗信徒と問答し敗北したことが発端となり、同年六月、比叡山は室町幕府をはじめ、東寺・園城寺・祇園感神院・興福寺・本願寺などに日蓮宗追討の宣言をして助力を働きかけました。比叡山は、六万(あるいは十五万)の軍を聚て京の日蓮宗二十一カ寺を襲撃し、日蓮宗も二万の町衆が応戦しましたが敗れ、すべての日蓮宗陣が破壊されました。日蓮宗は、その後、天文十一年(一五四二)に勅許を受けるまで京都での再興は許されていません。

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  要法寺の離反
 大石寺第二十三世日啓上人の天和・貞享・元禄時代の頃から、要法寺では日饒・日舒・日眷等が「造像・一部読誦論」を主張し、大石寺への離反が露わになってきましたが、まもなく大石寺第二十六世日寛上人による大石寺教学の宣揚や、檀林教学における交流などの影響で、要法寺は約七十年間、大石寺の法門に戻りました。しかし、要法寺は寛政七年(一七九五)の「寛政法乱」において京都日蓮宗十五山の強力な迫害を受け、造仏・黒衣などの謗法を受け入れざるを得なくなり、教義と化儀の両面にわたって、大石寺とは大きくかけ離れた宗派になってしまいました。