日蓮正宗の歴史
 
5、明治・大正時代

 明治政府は、江戸幕府が仏教寺院を利用して政策の実行をはかったのに対し、神道の国教化政策を強力に推進し、「廃仏毀釈」の風潮をもたらしました。それは明治元年(一八六八)に国家神道を中心とする祭政一致の制度を定め、神祇官の設置や神仏分離の令を布告したことからも明らかです。
 しかし、これらの政策が現実にそぐわないため、政府は明治五年(一八七二)に神祇省を廃して教部省を設置し、さらに同十年(一八七七)には教部省を廃して内務省に社寺局を置くなど、神道と仏教を利用しての国民教化政策をはかりました。同二十二年(一八八九)二月に発令された「大日本帝国憲法」では、天皇と神道を中心とした思想のもとで信教の自由は一応は認められるようになりましたが、「国家神道」を中心とする方針は次第に強められ、その流れは明治・大正から昭和二十年(一九四五)の第二次大戦の終わりまで続きました。このようななか、折伏を旨とする大石寺門流では、第五十二世日霑上人をはじめとする御歴代上人により、街頭講演会などの新たな布教方法をもって教化が強く進められ、各地に教会所が設立されました。
 そして明治三十三年(一九〇〇)、第五十六世日応上人の代には「日蓮宗富士派」の公称が認められ、さらに同四十五年(一九一二)六月、第五十七世日正上人の代に「日蓮正宗」との宗名が正式に認可されました。この時期に日応上人・日正上人や第五十八世日柱上人による全国巡教が行われ、各種の布教書が発行されるなど、布教が活発に行われました。


問答による宗旨の宣揚

 江戸時代と同様、明治・大正時代における富士門流の僧俗による折伏は、他宗他門からの論難を呼び起こしました。

  両山(霑志)問答
 江戸末期における「石要問答」で大石寺に敗北した要法寺の玉野日志は、北山本門寺の三十四代住職として就任したことを機に、明治十一年(一八七八)十二月五日、第五十五世日布上人に対して五十箇条の疑難を投げかけてきました。その内容は、主に第四十八世日量上人の著である「富士大石寺明細誌(宝冊)」に関するものでした。これに対し、日布上人は同月十七日、論難の大旨について大石寺の法義をもって返答の書を送られました。
 さらに翌年一月、御隠尊であった第五十二世日霑上人は日志に対して、論難の一々にわたる破折書を送られています。これは、後に「霑志問答」といわれるようになりました。日霑上人はここにおいて、本門戒壇の大御本尊・唯授一人の血脈相承・本門寺寺号のことなど、それぞれに文証を挙げ、理を尽くし、日志の邪義を完膚なきまでに破折されました。
 この破折によって、日志は日霑上人に対し、「意も尽き語も絶しぬれば自今数多の駁言を賜はるも、其の愚意に徹し謝すべきにあらば謝書を呈し云々」と弁明の返書を送り、また日布上人に対しても「失義多罪、御海容是れ祈る」との詫び状を提出しています。
 しかし、その後日志が再び問難を投げかけてきたことに対し、日霑上人は破折の文書を出されましたが日志は返答できないまま、明治十五年(一八八二)七月、五十歳で死去しました。

 
  横浜問答
 明治十五年(一八八二)八月下旬、横浜の富士派(大石寺)本門講の講員が、身延一致派の流れを汲む蓮華会(会長・田中巴之助)の会員を折伏し、これが発端となって双方の教義論争がはじまりました。
 当初は公場対決の約束でしたが、蓮華会からの要求により文書による問答に変更し、同年九月、双方で「交互に七日以内に答弁書を差し出すこと、また対決の結果、返答に窮し自己の誤りを認めた方が相手側を正義としてその講に加盟する(趣旨)」という約定を結びました。
 同年十月三日に富士派の本門講側から、一回目の質問として「本尊段・本尊段遮難・下種僧宝論・修行段」の四問を発し、以後、往復対論を行いましたが、同年十二月四日の本門講からの六回目の質問に対して蓮華会からの返書はなく、突然、口舌による対論に変更したいと申し出てきました。このため本門講は、同年十二月十四日、約定違反を明記した処断書を蓮華会側に送って問答の終局としました。蓮華会会長の田中は、処断書に対する何らの返答をすることもなく、にわかに行方をくらまし、この問答は本門講の勝利に終わりました。
 なお、この田中巴之助は後に田中智学と称して、この問答対論で得た大石寺の教義を巧みに取り入れて、在家教団「国柱会」を設立しています。同会は、もともと身延一致派の流れを汲みながら、横浜問答の後、一致派にはあり得ない「富士戒壇説」「曼荼羅本尊正意説」等を主張するに至り、その後、国体主義に迎合した「国立戒壇説」を唱えました。

 
  富士派と顕本法華宗(什門)との問答
 明治三十三年(一九〇〇)十月、顕本法華宗の田辺善知から大石寺に対して公場対論を申し出る書状が届けられました。これを受けて大石寺側は、阿部慈照師(第五十七世日正上人)と土屋慈観師(第五十八世日柱上人)の二人を立て、顕本側の田辺らとの間で数度にわたる準備書簡の往復をし、同年十一月十一日、対論規約を結びました。
 その内容は、論題を「経巻相承と血脈相承の当否」「末法における釈尊本仏論と宗祖本仏論の当否」の二つとし、引証の御書は録内御書にかぎり、双方三名が交互に弁論し、法論の決定後に敗者は帰伏の広告を出したうえ、一宗を挙げて改宗することでした。
 富士派は、これらの規約締結に先立ち、宗会での議決を経て、宗内僧侶の賛成調印を得ていましたが、顕本側は、元の管長をはじめとする反対者もあって宗内をまとめることができず、十数度にわたる富士派側の文書による請求にも、言を左右にして問答後の責任の所在を明らかにしませんでした。
 そこで対論の責任を重んずる富士派は、翌三十四年(一九〇一)一月十七日、顕本側の契約不履行を理由に問答破棄を通告し、その経過を一般誌(明教新誌)に広告したうえで、一月二十日、東京江東(江東区)において、日応上人・日正上人出席のもと、「対・顕本法華宗問答破棄理由公開演説会」を開き、同宗への七箇条の質問書を一般に公表配布しました。
 その後も双方のやり取りは続き、富士派は同年二月二十日、東京両国(墨田区)において「顕本対治の大演説会」を開き、質問自由として顕本側を招待しましたが、参加した百名前後の顕本側からは質問の名のりはありませんでした。これに対し、顕本側は四日後に同所で講演会を開き、富士派側が問答を取り下げたと悪宣伝しながら、富士派側参加者の質問申し込みを許さず、一方的な自論の発表に終始しました。この理不尽な姿勢に対し、富士派は同年二月二十六日、顕本側・本多日生の地元である東京北品川(品川区)で講演会を開き、やじ・怒号の飛び交うなか、顕本側を破折しました。
 このとき、再度問答を行うことを双方が取り決め、その規約を「交互に二十分以内の発言をする(取意)」と結び、三月一日、東京両国において、日正上人と本多日生との間で公開問答が行われました。この問答は交互に六回ずつ発言し、大石寺側は、道理・文証・現証によって「血脈相承」の正義を述べ、顕本側の「経巻相承」を論破しましたが十二回目にあたる富士派側の最後の発言中に、本多日生が口をはさむという約定違反を犯したために場内騒然となり、臨場の警官により解散を命ぜられて、問答は中途でやむなく終了しました。
 この問答では、顕本側が問答後の宗派の帰結について言を左右し、最後に約定を破ったことなど、その卑劣な対応が広く世間に知れわたり、顕本側の敗北を天下に公表する結果となりました。

 


  その他の問答
 明治八年(一八七五)十月には、大阪蓮華寺の講頭・森村平治等が、要法寺(現日蓮本宗)の末寺である蓮興寺と問答を行い、また同年十二月には、堺本伝寺(大石寺末寺)の本立講が日蓮宗一致門流の妙見朋友講を論破するなど、積極的に折伏が展開されました。
 また大阪蓮華寺の信徒・荒木清勇は、同十六年(一八八三)六月に法華宗八品派と法論を行い、同十八年(一八八五)四月にも、一致派・畠山弥兵衛と法論を行っています。
 さらに同月、神奈川県小田原において第五十六世日応上人がキリスト教徒と公開討論をされ、同二十年(一八八七)四月には、大石寺門流の久留米霑妙寺・佐野広謙(妙寿日成尼)が身延派・頂妙寺の僧を破折されました。
 また同二十三年(一八九〇)十一月には、横須賀において御隠尊第五十三世日盛上人が身延派・清水梁山と問答されています。
 同二十六年(一八九三)二月には、京都住本寺の信徒・加藤道栄が、要法寺塔中の真如院・矢田志玄を論破し、大正十五年(一九二六)五月には、ほっかいどう深川寶龍寺(大石寺末寺)の渋田慈旭等が本門法華宗を破折するなど、各地で富士派の正義が宣揚されました。


「興門派」からの独立と宗名の公称

 日蓮大聖人は御在世当時、そのときどきに「日蓮が一門」「日蓮等の類」等と称され、特定の宗名を掲げられませんでした。大聖人御入滅後、日興上人は富士大石寺を創建されてより、五老僧らと峻別するために「富士門流」と称され、その名は近年まで用いられてきました。
 明治五年(一八七二)秋、明治政府は官布告によって、仏教各派を天台・真言・浄土・禅・真・日蓮・時の七宗に属させ、各宗に管長一名を置き、宗務を管理統制するという制度を定めました。この管布告によって、富士門流が日蓮系各派と合同されてしまうことを危惧した大石寺第五十四世日胤上人は、同六年(一八七三)一月より数度にわたって教部省に「大石寺一本寺独立願」を提出されました。しかし同九年(一八七六)二月に至り、身延久遠寺などの諸寺(池上本門寺・中山法華経寺・越後本成寺・京都妙顕寺・京都本圀寺・京都妙満寺)が「日蓮宗」と称したので、大石寺はこれに対抗してやむなく、日興上人門流の北山本門寺・京都要法寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺(以上、興門派八山)とともに「日蓮宗興門派」と称することになりました。
 そして同年四月、日胤上人は教部省に対し、教義信条のうえから大石寺が正統である理由を説いて「興門派」の総本寺として大石寺に管長を任命するよう請願し、さらに翌月には興門派からの分離独立を申請しましたが、これらは認められず、興門派管長は八山が交代で勤める形を余儀なくされました。
 また第五十五世日布上人は、この不本意な状態に対して同十五年(一八八二)七月、大石寺分離独立を内務省に出願され、さらに同十七年(一八八四)十月には、血脈付法の大石寺法主を管長に選定すべきであるとの意見書を八山会議に提出し、総本寺としての立場を主張されています。またさらに第五十六世日応上人も、同二十九年(一八九六)六月より数度にわたって大石寺の分離独立を申請されるなど、代々にわたり、大石寺が大聖人・日興上人以来の血脈を承継する正統なる総本山であることを主張し続けられました。
 そして同三十三年(一九〇〇)九月十八日、ついに積年の尽力が実り、興門派からの分離独立が認可されて「日蓮宗富士派」と公称することができ、同年十一月四日、大石寺御影堂において「独立発表式」が挙行されました。
 さらに明治四十五年(大正元年・一九一二)六月七日、第五十七世日正上人の代には、日蓮大聖人の三大秘法の宗旨を正しく血脈継承する唯一の宗団である意義をもって「日蓮正宗」と公称し、大正元年(一九一二)十月二十一日に「日蓮正宗公称奉告法要」が大石寺客殿で盛大に奉修されています。

*******************************************************************************
  宗門の教育機関
 宗名公称に至るまでの間、宗内僧侶の教育機関にもさまざまな変遷があり、細草檀林の廃止にともなって明治十六年(一八八三)に設置されていた「瑞聖教校」は、「興門学林、「本門宗石山学林」と名称が変更されました。そしてこの分離独立の認可の条件として教育機関が不可欠であったため、明治三十三年(一九〇〇)十月にこれを「富士学林」と改称して現在に至っています。


*******************************************************************************