日蓮正宗の歴史
 
2、鎌倉時代

 鎌倉時代には、平安末期から起こった源平の争いによる世情の不安定に加え、「末法思想」が世間一般にも蔓延したことにより、後世、「鎌倉新仏教」と呼ばれる宗教が数多く生まれました。このような時代に立宗された日蓮大聖人の仏法は、二祖日興上人・三祖日目上人へと相伝され、正法による宗団が確立されていきました。

 第二祖日興上人
 常随給仕と弘教
 日興上人は、寛元四年(一二四六)三月八日、甲斐国大井莊鰍沢(山梨県鰍沢町)に誕生され、幼少期に修学のため駿河国蒲原莊(静岡県蒲原町)四十九院に登られました。
 正嘉二年(一二五八)二月、大聖人が『立正安国論』の述作に際し、大蔵経を閲覧するために岩本(静岡県富士市)実相寺へ入られたおり、当時十三歳であった日興上人は大聖人の弟子となって、名を伯耆房(後に白蓮阿闍梨)と賜りました。以後、弘長元年(一二六一)五月の伊豆配流や、文永八年(一二七一)九月の竜口法難に続く十月の佐渡配流にもお供をされ、その後も大聖人への常随給仕を尽くされました。
 文永十一年(一二七四)五月、大聖人とともに身延に入山された日興上人は、有縁の地であった甲斐・駿河地方に弘教を展開され、その結果、四十九院・実相寺・滝泉寺などから多くの僧侶や農民信徒が法華経に帰依しました。
 そしてこのような教線拡大が原因となって弘安二年(一二七九)九月、熱原の法難が起こりましたが、神四郎・弥五郎・弥六郎等の熱原の法華講衆は、日興上人の指導のもとに死身弘法・不自惜身命の信心を貫きました。




  二箇相承と本門弘通の大導師
 日蓮大聖人は、弘安元年(一二七八)頃より、日興上人に『百六箇抄』『本因妙抄』等の多くの相伝書をもって種々の宗義を付嘱されました。そして、同五年(一二八二)九月には『日蓮一期弘法付嘱書』をもって仏法のすべてを付嘱され、日興上人を本門弘通の大導師と定められました。
 一代の御施化をまっとうされた大聖人は、常陸へ湯治に赴かれる途中、池上宗仲の館において十月十三日に『身延山付嘱書』を認めて、日興上人を身延山久遠寺の別当職(貫首)と定められ、安祥として御入滅されました。
 大聖人の葬儀は、多くの弟子・檀那の参列を得て厳粛に執り行われました。日興上人はこのときの様子を『宗祖御遷化記録』に書き留められています。
 大聖人の葬送を無事終えられた日興上人は、御霊骨を捧じて同月二十五日に身延へ帰山され、久遠寺の別当職に就かれました。
 弘安六年(一二八三)一月、大聖人の百箇日忌法要の際、『定墓所守る可き番帳の事』(身延御廟輪番の制)をもって、門下の代表十八人が輪番で大聖人の墓所を守護することを定めましたが、鎌倉方の五老僧(日昭・日朗・日向・日頂・日持)等はこれを守らず、大聖人の一周忌・三回忌にも参列しなかったので、おのずと日興上人とその門弟によって御廟の守護と給仕が行われるようになりました。




  身延離山
 日興上人は、弘安八年(一二八五)春頃、身延に登山してきた民部日向を迎え入れ、学頭職に任ぜられました。しかし、鎌倉にあってすでに軟化していた日向は次第に日興上人の厳正な信仰に従わなくなり、翌年の末頃から不法の態度が露わになってきました。この日向の軟風に惑わされた地頭・波木井実長は、日興上人のたびたびの訓誡も聞き入れなくなり、ついに釈迦一体仏造立・神社参詣・福士の塔供養・九品念仏の道場建立という「四箇の謗法」を犯しました。日興上人は、かねて大聖人から、
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事・聖典五五五)
とうかがっていた時がきたことを自覚され、もはや身延は大聖人の御魂の住まわれるところではない、と判断し離山を決意されました。このときの御心境を日興上人は、
 「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(原殿御返事・聖典五六〇)
と仰せられています。
 そして正応二年(一二八九)春、日興上人は、本門戒壇の大御本尊をはじめ、大聖人の御霊骨・御書などの重宝を捧持して弟子とともに身延の沢を出発し、河合(富士郡芝川町)の外祖父・由比入道の館にしばらく逗留された後、大聖人御在世より篤信の士であった富士上野の地頭・南条時光の招請によりその館に入り、持仏堂(後の下之坊)に住されています。この身延離山は、直接的には地頭・波木井実長の謗法が契機となりましたが、その真意は、
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書 新編一六七五)
との大聖人の御遺命によるものでした。



  大石寺創建
 日興上人は、南条時光から「大石が原」の寄進を受けて、正応三年(一二九〇)十月十二日に「大石寺」を創建されました。そして翌十三日、日目上人に「譲座御本尊」を授与して血脈の法水を内付嘱されています。
 この頃、門弟等も、蓮蔵坊(日目上人)、寂日坊(日華師)、理境坊(日秀師)、少輔坊(後の南之坊・日禅師)、上蓮坊(後の百貫坊・日仙師)、久成坊(日尊師)に続いて蓮東坊(日蔵師)、蓮仙坊(後の了性坊・日乗師)、蓮成坊(日弁師)などの坊舎を次々と建立し、大石寺は次第に整えられていきました。大石寺創建より七年余りを経た永仁六年(一二九八)、日興上人は大聖人の例に準じて、六人の本弟子(本六僧)を定めました。本六僧とは、日目、日華、日秀、日禅、日仙、日乗の六人を指します。




  重須談所と「五一の相対」
 永仁六年(一二九八)二月、日興上人は重須(富士宮市北山)の地頭・石川孫三郎能忠の請いにより重須へ移られ、ここを人材育成の「談所」として三十五年にわたって住まわれました。その間、嘉元二年(一三〇四)には、重須談所の初代学頭として、日向のもとから帰伏してきた寂仙房日澄師を補任され、さらに文保元年(一三一七)末に、二代学頭として三位日順師を任ぜられています。
また日興上人は、長年にわたり、大石寺との間を往来する門弟たちに、『立正安国論』『開目抄』『御義口伝』『神天上法門』等の講義をはじめ、身延離山の経緯や本門寺建立の構想などを教示されました。特に大聖人の法門においては自身の立場と、他の五老僧の異解を明確にされました。このことは『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』等に記され、その内容は五老僧たちが天台沙門と号し、神社に参詣し、釈迦一体仏を本尊と崇めるなどの謗法行為に対し、日興上人はあくまでも日蓮大聖人の弟子と称し、神天上の正意を厳守したうえで、大聖人御自筆の大曼荼羅を本尊とするなどの正義を示されたものです。
 このような、日興上人と五老僧との正邪の立て分けを「五一の相対」といいます。

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 梨の葉の逸話
 重須に移られた日興上人は、弟子の訓育に力を注がれ、その厳格さは「梨の葉」の逸話として語り継がれています。
日興上人は講義中、弟子日尊が秋風に散る梨の葉に気をとられ眺めているところを、「大法を弘めんとする者が説法中に落ち葉に心を奪われるとは何事か。速やかに座を立ちなさい」と叱責勘当されました。
その後、日尊は発心し、各地に弘教の歩みを運び、勘当が解かれるまでの十二年間に三十六カ寺もの寺院を改宗・建立したと伝えられています。

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五一の相対 
 日興上人の正義
@大聖人を末法の本仏と立て、申状に「日蓮聖人の弟子」と称された。
A『立正安国論』の精神より、神社参詣は謗法であると主張された。
B漢字・仮名文字を問わず大聖人の御書すべてを尊重された。
C一部読誦を戒め、題目を末法の正行とされた。
D大聖人自筆の大曼荼羅を本尊とされた。
E大聖人の仏法による、法華本門の大戒を用いられた。
F仏法においては法脈の清濁が大事であり、謗法と化した身延には大聖人の御魂は住まないと主張された。
G富士は閻浮第一の最勝の地であり、大聖人の本願の所であるとされた。


 五老僧の邪義
@大聖人の仏法は天台を踏襲したものとみなし、各々申状に「天台沙門」と号した。
A伊勢神宮や二所(伊豆山権現と箱根権現)・熊野などの神社に参詣した。
B仮名文字の御書をさげすみ、すきかえしにしたり消却したりした。
C本迹一致を立て、如法経(写経)や一日経などの像法時代の行を修した。
D釈尊の仏像を造立し、本尊と崇めた。
E法華迹門の戒である比叡山の大乗戒を用いた。
F大聖人の墓所であった身延を重視し、日興上人の墓所不参をなじった。
G富士山を辺鄙の地と下した。
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  その他の事蹟と門下
 日興上人は、日蓮大聖人の仏法のみが一国の平和と繁栄をもたらす方策であるとの申状を、たびたび朝廷や幕府に対して奏上し、国家諫暁をされました。この当時、朝廷や幕府へ書状を奏上することは命がけのことでした。
 また日興上人は、大聖人の御書を数多く収集され、自らも『宗祖御遷化記録』『弟子分本尊目録』等の記録や、『神天上勘文』『遺誡置文』等の文書を著し、さらには『佐渡国法華講衆御返事』等の数多くの御消息文を残されています。
 日興上人の門下には本六僧のほか、新六僧である日代・日澄・日道・日妙・日毫・日助や、日盛・日尊・日善・日満等の多くの弟子と、上野の南条時光・富士賀島の高橋入道、富士河合の由比入道・重須の石川入道・甲斐の秋山泰忠・奥州や伊豆畠郷の新田家などをはじめとする多数の檀越があり、これらの人々は一族縁者とともに正法の護持と弘通に励まれました。




  遺 誡
 元弘元年(元徳三年・一三三一)十月、日興上人は大聖人の第五十遠忌を奉修され、翌年十一月、日目上人に「最前上奏の仁 新田卿阿闍(梨)日目に之を授与す 一が中の一弟子なり」と認めた「御手続御本尊」を授与されました。さらに同月十日には『日興跡条々事』をもって、本門戒壇の大御本尊を付嘱されるとともに、日目上人を一閻浮提の座主と定められました。
 また元弘三年(正慶二年・一三三三)正月十三日、日興上人は日目上人をはじめとする門下一同に対し、二十六箇条の『遺誡置文』をもって、大聖人の御化導に基づく肝要の法門・信条・化儀・勧誡等の永遠の指針を示され、同年二月七日に八十八歳を一期として入滅されました。



 第三祖日目上人

一閻浮提の座主・日目上人
 日目上人は文応元年(一二六〇)、伊豆仁田郡畠郷(静岡県函南町畑毛)に出生され、文永九年(一二七二)、十三歳で修学のため走湯山円蔵坊(熱海市)に入室されました。そして建治二年(一二七六)四月、十七歳のとき、日興上人が伊豆へ布教中に走湯山へ立ち寄られた際に弟子となり、交名を「宮内卿の公」(後に新田卿阿闍梨)と賜り、同年十一月より身延へ登って大聖人に常随給仕を尽くされました。
 そして弘安五年(一二八二)九月、日目上人二十三歳のとき、池上において大聖人の命を受け、幕府要人の二階堂伊勢守の子で天台僧の伊勢法印と十番問答を行い、これをことごとく論破されました。
 大聖人御入滅後、日目上人は日興上人に随順して身延山に入山され、弘安六年(一二八三)正月に定めた「墓所輪番制」により、大聖人の祥月命日にあたる十月の香華当番を勤められています。このころから日目上人は、たびたび奥州・関越・東海の各地に弘教され、特に有縁の地である奥州(宮城県)において数多くの人を教化折伏し、その地に上行寺・本源寺・妙教寺・妙円寺を建立されました。
 日目上人は、日興上人の身延離山にお供をして富士へ移られ、大石寺大坊が創建された翌日の正応三年(一二九〇)十月十三日に日興上人から血脈の内付嘱を受けられ、蓮蔵坊に住まわれました。そして、永仁六年(一二九八)二月に日興上人が重須の地に移られた後は、大坊に入って大石寺の維持と興隆の責任を一身に担われています。それより三十数年後の元弘二年(正慶元年・一三三二)十一月、日目上人は日興上人から『日興跡条々事』を授けられました。この書は、前の仏法内付の証であるとともに大石寺の譲り状として記され、日目上人を一閻浮提の座主と定められたものです。




  広宣流布への規範
 日蓮大聖人が『立正安国論』をもって国家諫暁されたように、日目上人も御遺命たる広宣流布のために、鎌倉の武家・京の公家へと為政者への諫暁を続けられ、その数は実に四十二度にも及んだと伝えられています。そのなかで正安元年(一二九九)六月の奏聞のときには、永年の願いであった公場対決が実現し、京都六波羅探題において、北條宗宣(十一代執権)が帰依する念仏僧・十宗房道智と対論し、完膚なきまでに論破されました。
 日興上人は、このような日目上人の功績に対して、後に授与された御本尊の脇書きに、「元享四年十二月二十九日 最前上奏の仁 卿阿闍梨日目」「正慶元年十一月三日 最前上奏の仁 新田卿阿闍(梨)日目に之を授与す 一が中の一弟子なり」と認められ、さらに『日興跡条々事』にも、「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って此くの如く書き置く所なり」(新編一八八三)と記されています。このように日目上人は、多くの奏聞と公場対決によって、末弟らに正法興隆・広宣流布への規範を示されたのです。


  最後の天奏
 元弘三年(正慶二年・一三三三)には百五十年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を中心とする公家一統の政治体制が敷かれることになりました。日目上人はすでに高齢でしたが、このときを好機として天奏の決意を固められ、出発に先立って同年十月、直弟子の日道上人に唯授一人の血脈を相承され、翌十一月、日尊師と日郷師をお供として京都へ向かわれました。
 しかし途中、美濃の垂井(岐阜県垂井町)の宿に至って病床に伏され、日尊師・日郷師に天奏の完遂と日道上人への報告を遺言して、十一月十五日、七十四歳で入滅されました。その後二人は、日目上人の御意のままに上洛し、日郷師は日目上人の御遺骨を抱いて十二月に大石寺へ帰山し、日尊師は翌年の建武元年(一三三四)に代奏を果たし、京都の地で弘教に努め、要法寺の前身である上行院を建立しました。