日蓮正宗の歴史
 
4、江戸時代

 江戸幕府は、当初よりキリスト教を禁制し、幕藩体制の強化を目的として既成仏教教団を利用し、本末制度で寺院を統制しつつ、「宗門改め・寺請制度」などによって、民衆を寺院に所嘱させる檀家制度を確立しました。これによって各宗の寺院が急増したため、幕府は寛永八年(一六三一)と元禄五年(一六九二)に「新寺建立禁止の令」を出し、以後「寺院法度」を定め、宗教論争や自讃毀他を禁止するなど、強力に宗教を統制しました。
 これらの時代背景から、各宗派の力は内部の興学に注がれていきました。日蓮門下においては、檀林(学問所)が関東に次々と設立され、天台学を中心とした教学の研鑚が盛んに行われるようになりました。
 大石寺においてはこの時代、諸堂宇の整備が進められ、各地に末寺が建立されていきました。特に江戸中期以降においては、活発な折伏弘教を原因とする法難が各地で起こっています。




  江戸初期における大石寺の発展と末寺の創建
 江戸初期の大石寺は、第十七世日精上人の頃に大きな発展を遂げました。
 日精上人は、寛永九年(一六三二)に登座され、翌年、第十八世日盈上人に法を付嘱されましたが、再登座された期間を含めて御遷化までの約五十年間に数多くの書を著され、なかでも寛文二年(一六六二)の『富士門家中見聞』三巻は、富士門流上古時代の貴重な歴史資料となっています。
 また、阿波徳島の城主・蜂須賀至鎮の夫人で、徳川家康のひ孫にあたる敬台院は、日精上人に帰依し、寛永九年(一六三二)に本山御影堂を再建寄進したのをはじめ、同十九年(一六四二)、上総(千葉県)に細草檀林を設立し、正保二年(一六四五)には江戸・敬台山法詔寺を徳島に移して敬台寺を創立するなど、宗門の発展と外護に多大な功績を残しました。
 末寺においては、御登座以前の第十六世日就上人が、慶長十年(一六〇五)に江戸常在寺を創建されたのをはじめとして、同十八年(一六一三)に第十五世日昌上人が磐城(福島県)の法華寺を、元和元年(一六一五)に第十四世日主上人が磐城の本法寺を、また翌二年(一六一六)に日昌上人が駿河(静岡県)の妙光寺を建立され、寛永十五年(一六三八)には日精上人の教化により、江戸常泉寺と塔中眞光坊(千葉眞光寺)が大石寺末寺として改宗しています。
 さらに第十九世日舜上人によって、万治三年(一六六〇)に富士上井出の本証寺、寛文七年(一六六七)に同所の寿命寺が創せられ、また第二十世日典上人の時代に鳥取日香寺が創建されました。
 貞享二年(一六八五)には、第二十二世日俊上人が大石寺墓所に中央大塔(三師塔)を建立されています。






  江戸中期の大石寺
 江戸中期には、大石寺は有力な信徒の外護を得て堂塔・伽藍が整備されるとともに、宗門の教学も第二十六世日寛上人によって大成され、日蓮大聖人の正法正義が大いに発揚されました。

  大石寺諸堂宇の整備
 大石寺では、第二十四世日永上人の代の元禄十年(一六九七)に、経蔵の創建によって『明本一切経』が収蔵され、宝永元年(一七〇四)には六万塔が建てられ、翌年には蓮蔵坊が再建されるなど、諸堂宇が建造されていきました。
 また第二十五世日宥上人の代に、同上人に深い縁があった天英院殿(徳川第六代将軍家宣の夫人)が帰依し、正徳四年(一七一四)に、千五百両の寄進によって常泉寺の本堂が建立されています。これに先立つ正徳二年(一七一二)には、天英院殿の人力により幕府から黄金千二百粒・富士山の巨木七十本の寄進を受け、これに日永・日宥両上人の九百両と合わせて、五年後の享保二年(一七一七)八月に、大石寺三門が建立されました。
 享保三年(一七一八)に登座された日寛上人は、梵鐘の改鋳・青蓮鉢の造立をされ、また第二十七世日養上人の代の享保八年(一七二三)には、客殿が再建され、さらに翌九年(一七二四)に再登座された日寛上人によって石之坊が創建され、同十一年(一七二六)には常唱堂が建立されました。
 また日寛上人は、五重塔の建立発願の基金として五十両、永代の基金として二百両を残されるなど、大石寺の興隆と維持に重々の配慮をされています。この五重塔は、その後の五代にわたる御歴代上人の丹精と、伊勢(三重県)亀山城主・板倉勝澄の一千両の寄進、江戸・金沢等の信徒の御供養による総額四千二百両の大工事をもって、二十三年後の寛延二年(一七四九)、第三十一世日因上人の代に完成しました。






  中興の祖・第二十六世日寛上人
 日寛上人は寛文五年(一六六五)八月、上野国前橋(群馬県前橋市)に誕生され、天和三年(一六八三)十九歳のとき、江戸下谷の常在寺に隠棲されていた第十七世日精上人の説法を聴聞して出家を決意されました。そして同寺の後住となられた日永上人(後の大石寺第二十四世)の弟子となり、名を覚真日如と称して常在寺及以大石寺で修行をした後、元禄二年(一六八九)に二十五歳で上総・細草檀林(千葉県山武郡)に入林されています。僧侶の学問所である細草檀林は、寛永十九年(一六四三)に敬台院の助力を得て設立され、元禄の頃には数百の学徒が集まり、主として天台三大部の研鑚に力が注がれていました。
 日寛上人は約二十年間にわたる研学の末、宝永五年(一七〇八)四十四歳のとき、檀林の能化に昇格して名を堅樹院日寛と改め、『法華玄義』『法華文句』を講じられています。その後、正徳元年(一七一一)夏、大石寺蓮蔵坊(学頭寮)に入り、大弐阿闍梨と号され、『立正安国論』をはじめとする主要御書の講義、さらには教義に関する著述など、宗門の興学布教に努められました。
 享保三年(一七一八)三月、第二十五世日宥上人より血脈の付嘱を受けて大石寺第二十六世の法主となられた日寛上人は、宗門教学の大綱を『六巻抄』としてまとめられ、正法を顕示するとともに他門日蓮宗の邪義をことごとく破折されました。
 また、信仰修行の面においても常唱堂を建立して昼夜にわたる唱題の実践や信徒の育成、さらには五重塔の造営基金を残されるなど、宗門の興隆に尽力され、享保十一年(一七二六)八月十九日に六十二歳で御遷化されました。
 大石寺の興隆と教義の大成に不朽の功績を残された日寛上人は、第九世日有上人とともに「中興の祖」として仰がれています。



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  日寛上人の御遷化
 享保十一年八月、御自分の死期を悟られた日寛上人は、時の御法主日詳上人をはじめ、大石寺山内の僧侶や檀家へ別れの挨拶をすませたのち、桶工に自らの棺桶を造らせました。そして十八日深夜に至り、床の間に大曼荼羅をお掛けし、辞世の句として「末の世に 咲くは色香は及ばねど 種はむかしに替らざりけり」と書き終えるや、侍者に打たせた蕎麦を七箸召し上がられ、笑みを浮かべて「ああ面白きかな寂光の都は」と最後の一声を述べられました。その後うがいをなされ、威儀をただして大曼荼羅に題目を唱えつつ、十九日辰の刻、眠るがごとく安祥として御遷化されました。
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  江戸中期以降の大石寺
 江戸中期に飛躍的な発展を遂げた大石寺は、その後も御歴代上人によって、堂宇が建立され、修繕が加えられるなど、境内のいっそうの整備がはかられています。
 享保十六年(一七三一)、第二十八世日詳上人によって大聖人の第四百五十遠忌が奉修され、そのおり、西大塔(三師塔)が造立されています。また、第二十九世日東上人より法を継承された第三十世日忠上人は、元文五年(一七四〇)に大石寺塔中の報恩坊を創建され、さらに第三十一世日因上人の代には五重塔が完成しています。
 この後も安永元年(一七七二)には、第三十六世日堅上人が書院を再建され、第三十七世日●上人は大聖人第五百遠忌の奉修と、寛政二年(一七九〇)には御宝蔵を再建されています。また、第四十世日任上人・第四十三世日相上人・第四十八世日量上人の時代にも諸堂の修理が行われました。さらに細草檀林を中心とする興学は、日寛上人の御遷化の後から明治時代に至るまで衰えることなく継続しました。この間には日因上人の数十部にも及ぶ著述や、天保七年(一八三六)の日量上人による富士門流史としての「続家中抄」、さらには第五十二世日霑上人の江戸末期から明治に至る間の多くの著作など、御歴代上人によって多数の文書が著されています。


  江戸時代の弘通と法難
 江戸幕府は、宗教政策の一環として寺院法度を定め、布教を厳しく制約するとともに、寺請制度を設けて改宗を禁止しました。しかし、そうしたなかでも大聖人の破邪顕正の精神を受け継ぐ僧俗の折伏弘教により、日本各地に大石寺信仰への改宗者が相次ぎました。このため、為政者や他宗の僧俗によって大石寺門徒への迫害が加えられ、各地で法難が起こりました。

  金沢法難
 加賀・能登・越中の三カ国を領有した金沢藩では、第五代藩主・前田綱紀の勧めにより、江戸屋敷の家臣が常在寺で日精上人の説法を聴聞したことにより、家臣の中に大石寺の信徒が誕生しました。その後、大石寺に帰依する者は領内にも弘っていき、享保三年(一七一八)頃には福原式治(次郎左衛門)をはじめ、純真な信仰を貫く信徒が続々と現れました。しかし、同八年(一七二三)に藩主が第六代の吉徳になると、藩は幕府の厳しい宗教政策に従って、領内に末寺がない大石寺信仰は寺請制度に抵触するとして、布教を取り締まるようになりました。
 そして、享保十一年(一七二六)四月に加賀の法華宗慈雲寺の僧・了妙が富士門流に改宗したことにより、慈雲寺が寺社奉行に訴えたため、大石寺の信仰は禁止されて内得信仰さえも差し止められました。この頃、藩内の大石寺信徒は数千人に達したといわれています。
 翌十二年(一七二七)三月、第二十八世日詳上人は金沢藩江戸屋敷に対し、領内の寺院建立と大石寺信仰の解禁を願い出られましたが却下され、その後、歴代上人が藩主の交代のたびに末寺建立願いを提出しましたが、いずれも藩規により受諾されませんでした。
 しかし、このような状況のなかでも弘教は続けられ、十数の講中が生まれるほどになりました。これに対して藩では、元文五年(一七四〇)、寛保二年(一七四三)、明和七年(一七七〇)と、数度にわたって大石寺信仰の禁止令を出し、これに背いた理由で大勢の人々が入牢・閉戸などの刑に処されました。そのなかで、天明六年(一七八六)四月に大石寺信徒の足軽小頭の竹内八右衛門が牢死しました。
 これらの迫害は、明治時代を迎えるまでの約百五十年間の長期にわたりましたが、金沢信徒たちは「抜け参り」を行うなど、根強い信仰を続けました。この法華講衆の中より、第三十七世日●上人、第四十七世日珠上人が出られています。そして明治十二年(一八七九)、第五十二世日霑上人により金沢の地に妙喜寺が建立され、ここに金沢信徒の悲願が成就したのです。



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抜け参り
 金沢法華講衆の強盛な求道心を示す逸話として、二つの「抜け参り」が伝えられています。一つは、前田藩士が江戸への参勤交代の途中、東海道吉原(富士市)付近で宿泊したとき、金沢信徒の青年武士たちは、お供衆が寝静まった深夜に宿を抜け出し、約十五キロもある大石寺まで駆け走り、歓喜の唱題を行って宿に戻ったといいます。
また、道中手形を出してもらえない金沢の信徒たちは、大石寺に参詣したい一心から領内を抜け出し、互いに励まし合いながら山谷を踏み越え、十数日を掛けて大石寺への参詣を果たしたといいます。

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  讃岐法難
 甲斐(山梨県)在住の大石寺信徒・秋山泰忠は、四国へ所領替えとなり、元享三年(一三二三)、本六僧の日仙師を開基として讃岐に法華堂(本門寺)を創建しました。
 讃岐本門寺は戦国時代、交通の便などから大石寺との交流が希薄になりましたが、江戸時代に至ると諸国の往来も盛んとなり、讃岐から大石寺へ参詣する人も増えていきました。このようななか、慶長十七年(一六一二)、讃岐本門寺(法華堂)の大弐日円師が大石寺に参詣して帰途、日興上人の墓参のために北山本門寺に立ち寄った際、北山の日健から甘言をもって「法華寺久遠院日円上人」という上人号を記した本尊を手渡されました。それから三十四年後の正保三年(一六四六)に突然、北山の日優が「讃岐本門寺は北山本門寺の末寺である」と通告してきました。その内容は、慶長十七年の本尊に日円師が北山の日健によって上人に補任(任命)されたことが記されており、さらにまた讃岐本門寺の開基・日仙師は、北山本門寺を開いた日興上人より依託されて讃岐に赴いたのであるから、讃岐本門寺は北山本門寺の末寺であるというものでした。
 これに対し、讃岐本門寺の第十六代日教師が「北山本門寺の主張は不当である」といって服従しなかったので、北山側は同四年(一六四七)に讃岐本門寺を江戸寺社奉行へ訴え出ました。その結果、讃岐本門寺は不当にも法華寺と改称させられたうえ、北山本門寺の末寺とさせられてしまったのです。しかし讃岐の僧俗は、この理不尽な判決に従うことなく、本尊・法衣なども大石寺の化儀・化法を貫きました。
 これより百年を経た宝暦三年(一七五三)、讃岐法華寺の塔中である中之坊の住職敬慎房は、当地の床屋・真鍋三郎左衛門等とともに正義を主張し、北山本門寺寄りの人々を破折して大石寺への帰依を強く訴えていました。このようなとき、真鍋三郎左衛門が大石寺の日因上人より御本尊を下付されたことが、本寺である北山本門寺に背いた罪にあたるとして、敬慎房と三郎左衛門は同七年(一七五七)七月に入牢となり、敬慎房は二十一日間の断食を行うなかで牢死し、同じく三郎左衛門も牢獄の中で命を落としました。
 その後も讃岐法華寺は、北山からの不当な本末関係を押しつけられながらも、大石寺への帰依を願い続け、実に三百年を経て、昭和二十一年(一九四六)の宗教法人令の発令にともない、寺号を「法華寺」から元の「本門寺」へと戻すことが叶い、長年にわたる讃岐僧俗の宿願であった日蓮正宗への帰一が果たされたのでした。



  仙台法難
 奥州は第三祖日目上人・第四世日道上人の縁により、古来、大石寺信仰が盛んなところでした。明和元年(一七六四)春、大石寺第三十四世日真上人の弟子・覚林日如師が仙台に赴き、布教をさらに進めました。
 仙台の地に大石寺の末寺を建立することを宿願としていた賀川権八は、同じ志を持つ仙台藩の重臣・中沢三郎左衛門や家老・富沢惣右衛門と協力して小庵を設け、ここに覚林師の逗留を願って洞ノ口(仙台市岩切)の信徒とともに信仰に励んでいました。
 当時は、新寺の建立が禁止されていたため、覚林師は権八らの願いを成就させるため、その解決策として廃寺となっていた登米郡加賀野の本道寺を移転復興する準備に取りかかりました。
 しかしこの行動に嫉妬する他宗の僧と結託した役人は、明和二年(一七六五)三月七日、覚林師を伊勢屋平兵衛宅で詮議し、翌日には賀川・中沢の両名とともに捕縛しました。また同じく洞ノ口では、甚六・市郎兵衛・治三郎の三人が役人に連行され、さらに仏眼寺・日浄寺・妙教寺の信徒のほとんどが評定所に召し出されました。
 この知らせを聞いた日真上人は学頭の日穏上人(後の第三十五世)を現地に派遣しました。日隠上人は藩の奉行所に大石寺の格式と覚林師の無実を直談判するとともに信徒を激励しましたが、まもなく日真上人の御遷化によって大石寺に帰山せざるを得ませんでした。
 奉行所は日隠上人の帰山を機に、覚林師を仙台湾の網地島(宮城県牡鹿町)に流しました。網地島での厳しい流罪生活のなかで、覚林師は島民を折伏し、書状をもって仙台の信徒たちを励まし続け、寛政三年(一七九一)、二十七年間にわたる遠島が赦免されました。
 その後、覚林師は念願であった大石寺への参詣を果たし、生国である磐城(福島県いわき市)の妙法寺住職となり、正法弘通に生涯を捧げました。




  洞ノ口法難
 仙台法難から約四十年後の文化元年(一八〇四)、仙台・洞ノ口で再び法難が起こりました。洞ノ口の信仰の中心者である加藤了助(浄順)は、仙台法難においては賀川権八とともに刑に処せられましたが、その後、洞ノ口に移り住んでからも変わらぬ信仰を続けていました。そうしたなか、同信者の甚六が果敢に折伏を行ったことがきっかけとなり、郡奉行の詮議の結果、中心者の了助は入牢となりました。しかし、道念堅固な了助は、牢の中でも毎日一万遍の唱題を実践し、強盛な信心を貫きとおしています。
 この後、法難を見舞うために大石寺第四十三世日相上人(父は賀川権八) が奥州へ下向されたおりに、運良く仮出牢していた了助は、日相上人の説法を聴聞することができ、そのときの喜びを「只今までの苦痛の義は忘れ果て、弥増し信心倍増の心地に相成り申し候」と記しています。その後も了助と甚六は押込(自宅謹慎)の刑を受けましたが、洞ノ口の信徒たちはひたすらに富士大石寺の信仰を貫きとおし、やがて時代の経過とともに法難は終息しました。


  伊那法難
 伊那法難の中心者である城倉茂左衛門は、信州伊那郡小出村(伊那市西春近)の住人であり、城倉家は、祖父の代に曹洞宗(常輪寺)から日蓮宗(深妙寺)へと改宗していました。茂左衛門は、日蓮大聖人門下が別々の門流となっていることに疑問を抱き、それを晴らすために千ヵ寺詣でを決意しました。
 宝暦十三年(一七六三)、十九歳のとき、茂左衛門は近くの法華寺から身延山に至り、その後、富士大石寺において「本迹勝劣」「寿量文底」の法門を聞き、それまでの迷いを一掃して大石寺へ帰依することとなりました。
 茂左衛門は喜び勇んで故郷に帰り、屋敷内に小堂を建てて曼荼羅を安置し、盛んに布教を行いました。これにより阿波屋忠治・宮下茂兵衛等をはじめとする、地元他宗寺院の有力檀家が次々と改宗することとなったため、これを阻止しようとした地元の他宗三ヵ寺は天明四年(一七八四)五月上旬、寺請制度を盾にとって寺社奉行に訴え出ました。
 奉行所は大石寺信徒である茂左衛門・佐平治・藤右衛門らの三名を投獄し、多数の信徒を捕らえて取り調べました。そして茂左衛門らの説について日蓮宗の僧に尋ねたところ、正当な富士大石寺の教義であるとの返答を得ましたが、幕府の宗教政策に楯突く者として引き続き牢に繋ぎ止めました。その後、天明六年(一七八六)九月には、中心者である茂左衛門に対して三日間にわたる拍子木責めや水責めなどの過酷な拷問が加えられました。しかし、茂左衛門は大石寺信仰をやめるどころか声高らかに題目を唱え続けました。このため奉行所は吟味を断念し、大石寺信徒・長蔵ら九人を封印改め(手鎖)に、茂左衛門のほか女房・子供五人・下男の一家八人を追い払い(追放)・欠所(財産没収)に、阿波屋忠治を追い払いのうえ蟄居(謹慎)に処しました。
 その後、追放された茂左衛門はひそかに帰郷して教化に努め、厳しい状況のなかで大石寺信仰を同信者の心に深く植え付けていきました。
 そのような状況が二十年にもわたって続いた後、ようやく追放の刑を許された茂左衛門は、大石寺信仰が禁制されているなかで、後輩の育成と弘教に専念し、文化七年(一八一〇)、六十六歳でその生涯を閉じました。茂左衛門亡き後も伊那の信徒たちはひそかに夜ごと集まり、大石寺への信仰を持続し、法難の発端より約百年後の明治十三年(一八八〇)十二月、第五十三世日盛上人を開基として信盛寺が建立され、伊那法華講衆の長年の宿願がここに叶ったのです。






  尾張法難
 尾張地方では、文政年間に入って江戸目黒の永瀬清十郎の折伏により、富士派の信仰が急激に広まっていきました。名古屋では文政五年(一八二二)頃、高崎タヨ等数名が入信し、尾張北在(愛知県小牧市方面)では同六年(一八二三)に舟橋儀左衛門・平松増右衛門・岩田理蔵・木全右京等が入信し、さらにその布教は美濃(岐阜県)にまで及びました。これらの尾張法華講衆に対して御隠尊であられた第四十八世日量上人はたびたび書状をもって激励され、総本山より玄妙坊日成師・荘恩坊日覚師等が現地に赴いて布教にあたりました。このとき、清十郎も江戸から何度も尾張に入って折伏を果敢に行っています。その結果、尾張講中の弘教の意気は高まり日蓮宗徒とたびたび法論を交えました。この布教と法論によって文政・天保・嘉永・安政年間の三十数年にわたり法難が起こりました。
 文政八年(一八二五)七月には、高崎勝治(唯六)等、五名が日蓮宗本成寺で一致派の僧・日就を論破したことに端を発し、日蓮宗徒が寺社奉行の力を借りて大石寺信徒に暴行を加え、御本尊を強奪するという事件が起きました。このとき、日量上人は尾張法華講衆に対してたびたび激励の書状を送られています。
 また天保元年(一八三〇)六月には、木全右京は熱田(名古屋市熱田区)の日蓮宗本遠寺の役僧らに呼び出され、寺社奉行の命令である大石寺の信仰をやめることを強制されました。
 この時期、信徒たちは御本尊を厳護するために壁の中にお隠しするなどして信仰に励んでいましたが、同八年(一八三八)七月に突然、寺社奉行による信徒宅の「仏壇改め」が行われ、平松増右衛門等が過酷な取り調べを受けるなどの迫害が、翌九年(一八三九)四月まで断続的に続きました。
 さらに弘化の末頃より嘉永年中にわたって起こった法難は、一連の尾張法難のなかでもっとも激しいものでした。嘉永元年(一八四八)春、木全右京等が妙楽寺の僧である智定院を破折したことに端を発し、同年八月、右京をはじめ理蔵・善之衛門等も連行されて厳しい取り調べと拷問が加えられました。この拷問は熾烈を極め、善之衛門は歩くこともできないほどになり、中心者の右京と理蔵も半死半生の状態でした。
 その後、同年十月より平松増右衛門は、名古屋法華寺で三回にわたり身延派等七カ寺の僧を論破しましたが、その三年後の五月に捕らえられて二ヵ月間拘留されています。
 そして安政元年(一八五四)十一月には、右京の子である左京が日蓮宗僧・玉禅院と本迹勝劣について書面による対論でこれを論破し、同二年(一八五五)二月には岩田理蔵が『本迹問答』を記すなど、信徒の活躍は盛んでしたが、それがまた法難を誘発し左京は追放の刑となりました。また同四年(一八五七)三月から翌五年(一八五八)十一月にかけて、北在米野村(小牧市)の善之衛門・彦七・清九郎の三人が投獄のうえ、拷問を受け、さらに二十余人の信徒が拘禁されました。このように幕末までの数々の苦難に遭いながら尾張法華講衆は信仰を堅持しました。その結果、第五十二世日霑上人は、明治十二年(一八七九)に名古屋岩倉に興道寺を、同十四年(一八八一)には名古屋主税町に妙道寺を創立されました。さらに同二十四年(一八九一)には信徒一同の出願によって小牧に小木村説經所(後の妙経寺)が開設されています。

  八戸法難
 天保十三年(一八四二)、仙台仏眼寺の玄妙房日成師が陸奥国八戸(青森県八戸市)に遊化し、法華宗什門派に属する本寿寺の檀家であった阿部喜七等を折伏し改宗させました。喜七たちは強盛な信心をもって果敢に折伏を進めていきました。ところが他宗の人々からの悪口誹謗が日増しに強くなっていったため、喜七を代表とする中心者三人は万一の事態を考慮して「申し合わせ書」を作り、折伏弘通・異体同心・生涯不退転の約定を交わしました。
 同十五年(一八四四)五月、大石寺信徒に怨念を抱いていた本寿寺が、藩に対して「宗派違いの大石寺信仰は宗法に背くもので、キリシタン類似の信仰である」と訴えたことにより、玄妙房は領外に追放され、阿部喜七・阿部豊作・三崎清兵衛・石橋大治郎・桝屋清助・瀬戸屋善吉の七名が連行されて取り調べを受けることになりました。そして四ヵ月余りを経て、阿部喜七等七人は改宗の失により入牢となり、その後、中心者である阿部喜七は追放の刑に処せられました。
 しかし、このような厳しい状況のなかでも八戸の信徒たちはひるむことなく弘教を続けていきました。
 その後、喜七は出家して第五十一世日英上人の弟子となり、また、南部藩主(八戸藩第九代)である信順が大石寺に帰依したことにより、文久元年(一八六一)十月、八戸に玄中寺が創建されています。




 以上の法難のほかにも、天保十三年(一八四一)三月、池上本門寺より改宗した武蔵国荏原・蛇窪(品川区豐町)の高橋甚衛門の妻等の八名が投獄された「蛇窪法難」や、弘化三年(一八四六)九月の駿河国富士・猫沢(静岡県芝川町)の「猫沢法難(弘化度の法難)」等、多くの法難が起こりましたが、富士大石寺の信仰を護り続けた人々の不屈の精神は、末代信徒の亀鏡として今日に伝えられています。

江戸時代の布教と問答

 折伏による布教を旨とする大石寺門流は古来、他宗・他門と多くの問答を行い、ときには公場対決などによって独一本門の正義を宣揚してきました。しかし江戸時代には、幕府の政策により布教が禁止されていたため、公場対決のような問答は成立せず、個人による問答が各所で展開されました。

  砂村問答
 江戸目黒の住人である大石寺信徒・永瀬清十郎は、江戸末期の文政から安政(一八二〇〜一八五〇)年間に至る三十余年にわたって、東北から尾張地方の広範囲に足を運び、折伏弘教に精進した強信者で、なかでも尾張法難の渦中であった天保年間(一八三〇〜一八四三)には本迹一致派(身延派)との問答を数回行いました。
 この砂村問答は、一致派の教を弘めていた江戸砂村(江東区砂町)の住人・篠原常八と大石寺信徒・清十郎とが会津若松(福島県)において対論したことにはじまります。このとき、清十郎は本迹勝劣と身延謗法などの義をもって常八を破折しました。しかし、これに承伏できなかった常八は、二本松(福島県二本松市)に逗留していた清十郎のもとに趣き、再度の法論を要求しました。その際、本迹問題や本尊論などについて問答が交わされ、清十郎は富士の正義をもって、ことごとく一致派の教義を論破しました。
 これを機に常八は富士門流に改宗し、江戸砂村に帰ってからも清十郎のもとで大石寺法門への信解を深め、一致派を盛んに折伏して十数軒の同信者を生むほどになりました。これに対抗するために一致派は、成瀬玄益という熱心な身延信徒を充てて問答を挑んできましたが、これも清十郎によって、いとも簡単に破折されてしまいました。
 これにより一致派は、新たに梶柔之助という武士をたて、清十郎の留守を狙って常八に問答を仕掛けてきましたが、たまたま砂村に戻ってきた清十郎によって本迹一致の誤りを指摘され、柔之助らは完膚なきまでに論破されてしまい、問答は富士派・清十郎の圧倒的な勝利で終わりました。
 この一連の問答を清十郎は、天保六年(一八三五)十月に「砂村問答記」として書き留めています。



  石要問答(大石・要法血脈問答)
 安政六年(一八五九)、大石寺信徒の武内清三郎が京都要法寺の信徒であった木村子剛を折伏した際、木村が大聖人の仏法の真義を明確に知りたいと望んだことが発端となり、同年九月に、大石寺側の玄妙坊と要法寺側の智伝日志(玉野日志)等との間で問答が行われました。
 その内容は「謗法」と「血脈相承」にかかわるものでした。「謗法」については、大石寺側が要法寺の日辰の書に造像が記されていることを追求したことから、要法寺側が負けを認め、また「血脈」についても、大石寺の血脈は日蓮大聖人・日興上人・日目上人・日道上人と唯授一人の大導師血脈が明確であるのに対し、要法寺日尊師の血脈は一通の相承書に日尹・日頼・日大の三人が同時に記されていることから、唯授一人の大導師としての血脈ではないことを要法寺側が認め、平伏謝罪して終了しています。


異流儀の派生

 富士門流の信仰は、三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊を根本とし、大聖人・日興上人以来の歴代法主上人に師弟相対して信行に励むことを旨とします。しかしながら江戸時代において、この信仰の筋目から外れて異流儀と化したものに「三鳥派」「堅樹派」があります。

  三鳥派
 「三鳥派」は、江戸時代初期の寛永年間(一六三〇年代)に、三鳥日秀が起こした異流儀の一派です。日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、後に大石寺の法義に違背して異流儀を主張するようになりました。 日秀の没後、三鳥派の一潮日浮は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。このように日浮は、荒唐無稽の新義を創出して人々を惑わし、また本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪り取るなどの悪行を重ねました。
 この三鳥派は、「妙法」の二字を唱えることが、宗祖の教えであると主張し、独特の呼吸法と神秘的な利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、幕府により禁制の不受不施派と同様であるとされ、中心者らは死罪等の刑に処せられて江戸末期に壊滅しました。

 
  堅樹派
 「堅樹派」は、江戸時代後期の明和九年(一七七二)、堅樹日好が起こした異流儀の一派です。日好は本迹一致の身延門流から大石寺に帰伏しましたが、まもなく大石寺批判を重ねるようになり、離反して異流儀を唱えはじめました。
 日好は「大石寺は大聖人の正統ではあるが、折伏をしないから法水が濁っている」と大石寺を誹謗して「我こそ大聖人・日興上人の正統である」と自讃し、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」などの邪義を立てて、強引な布教を行いました。
 しかし、このような布教が幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は投獄されたうえ、はじめは三宅島に流され、次いで利島に流されて在島三十八年の後、文化九年(一八一二)に罪人のまま、七十四歳で寂しました。
 その後、門下の臨導日報が日好の義を受け継いで大石寺を批判し続けたため、第五十二世日霑上人は「異流義摧破抄」を著して破折されました。しかし、自説に固執する日報が「聖語明鏡顕魔論」をもって反抗してきたため、日霑上人は「叱狗抄」を送って再度強く破折されました。
 日報は、その後も大石寺を誹謗し続け、臨終には悪相を現じて非業の最期を遂げています。この日報の臨終の姿から、その信仰に疑いをもった弟子・佐野広謙(妙寿日成尼)・富士本智境(日奘)が、明治八年(一八七五)に日霑上人のもとに帰依し、強力な折伏を展開したことにより、堅樹派に感化されていた人々も、徐々に大石寺に帰伏するようになりました。このようにして堅樹派は、日好から百数十年を経た明治中頃にその流れを止めました。