信仰の功徳
 
 日蓮正宗の信仰の実践は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳をそなえた人生を築くとともに、真の平和社会を構築することを目指しています。この実証こそ、御本尊の大功徳力(だいくどく)なのであり、信仰実践の利益(りやく)なのです。
 功徳とは、「積功(しゃっく)累徳(るいとく)」「功能(くのう)福徳」の意で、仏道修行という善因を修し、善根を積むことによって得る福徳のことをいいます。すなわち、利益が他から与えられるものに対し、自ら積むことを功徳と称しますが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は功徳も利益も同一です。
 功徳について大聖人は、
「釈尊の因行果徳の二法、三世十方の諸仏の修因(しゅういん)感果(かんか)、法華経の文々句々の功徳を取り聚(あつ)めて此の南無妙法蓮華経と成し玉へり」(御講聞書(おんこうききがき) 新編一八五九)
と仰せられ、妙法蓮華経には無量の福徳がそなわっていることを示されています。さらに、そのはかり知れない功徳も、
 「功徳(おおきなさいわい)とは即身成仏なり、又六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)なり」(御義口伝 新編一七七五)
と仰せられているように、「即身成仏」「六根清浄」の境界を得ることに極まると教示されています。
 すなわち、何ものにも脅(おびや)かされない安心(あんじん)立命(りゅうみょう)の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面にわたって福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳なのです
六根清浄
  仏法では、衆生の苦悩の原因を迷いの生命の根源である煩悩(ぼんのう)から引き起こされるものと解明しています。その衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性(さが)を断ち切るという果報が、まさに「六根清浄」の功徳なのです。
 六根の「根」とは、草木の根に譬(たと)えられ、私たちの生命が周囲のものを取り入れたり、認識する能力のことで、眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根(びこん)・舌根(ぜっこん)・身根(しんこん)・意根(いこん)の六つの器官をいいます。
 眼根とは、視覚能力・視覚器官。耳根とは、聴覚能力とその器官。鼻根とは、嗅覚(きゅうかく)能力とその器官。舌根とは、味覚能力とその器官。身根とは、触覚(しょっかく)器官としての身体とその能力。意根とは、前の五根によって得られた内容を統合判断する思惟(しゆい)能力、または知覚をいいます。
 この六根が煩悩に覆(おお)われていると、外界の事象を正しく認識できないばかりか、それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。
 こうした業苦を消滅させるためには、六根そのものを清らかな状態にしていくことが必要です。
 『法師(ほっし)功徳品(くどくほん)第十九』には、
「是(こ)の法華経を受持し、若(も)しは読み、若しは誦(じゅ)し、若しは解説(げせつ)し、若しは書写(しょしゃ)せん。是の人は、当(まさ)に八百の眼(まなこ)の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意(こころ)の功徳を得べし。是の功徳を以(もっ)て、六根を荘厳(しょうごん)して、皆清浄ならしめん」(開結四七四)
と説かれ、法華経受持の功徳によって、六根それぞれに多くの清浄の果報を得ることが明かされています。これを概説(がいせつ)すると、次のようになります。
 眼根の功徳―すべての事象が明らかに見え、物事の因果を正確に知ることができる。
 耳根の功徳―あらゆる音声から、実(じつ)・不実を聞き分けることができる。
 鼻根の功徳―あらゆる臭(にお)いを嗅(か)ぎ分け、分別(ふんべつ)を誤ることがなくなる。
 舌根の功徳―勝(すぐ)れた味覚を持ち、さらにその声は深妙(じんみょう)となり、聞く者を喜ばせることができる。
 身根の功徳―穏(おだ)やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処することができる。
 意根の功徳―心は清らかに、頭脳は明晰(めいせき)となり、智慧が深くなる。
 すなわち、六根清浄とは六根にそなわる煩悩の汚(けが)れが払い落とされ、物事を正しく判断できる智慧を得ることをいうのです。たとえば目が不自由であったとしても、妙法受持の功徳によって、肉眼(にくげん)以上の慧眼(えげん)・法眼・仏眼を得ることができるのであり、このような功徳は他の五根にもつうじていえることなのです。
 日蓮大聖人は、
 「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御義口伝 新編一七七五)
と仰せられ、末法の法華経である南無妙法蓮華経を信じ唱える者には、必ず六根清浄の功徳がそなわると教示されています。

即身成仏
 即身成仏とは、煩悩(ぼんのう)に覆(おお)われた凡夫(ぼんぶ)の身のままで仏に成ることをいい、自己の生命の奥底(おうてい)にそなわる仏性を開き、安心立命の境界となる最極の功徳をいいます。
 この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となるのです。
 釈尊は爾前経(にぜんぎょう)において、永(なが)い期間にわたって煩悩を一つひとつ断じながら成仏に向かうという歴劫(りゃっこう)修行を示しましたが、法華経では 『提婆品(だいばほん)第十二』で竜女(りゅうにょ)の即身成仏を説き、歴劫修行をせずに成仏できることを明かされました。
 さらに大聖人は、機根(きこん)も低く三毒強盛(ごうじょう)の荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底(もんてい)に秘沈(ひちん)された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示されました。すなわち、
 「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業(ごう)・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其(そ)の人の所住の処(ところ)は常寂光土なり」(当体義抄 新編六九四)
と仰せられ、大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自身の煩悩・業・苦の三道が、清浄(しょうじょう)にして不動の心(法身)となり、深い智慧(ちえ)と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発(かいほつ)し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きをもたらすことになると示されたのです。
 すなわち、正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり(煩悩即菩提)、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換(生死即涅槃)されていくのです。
 さらにこの即身成仏の境界は、大聖人が、
 「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿御家尼御返事 新編三三六)
と仰せられているように、その徳は今世(こんぜ)だけにかぎらず、未来永劫(えいごう)にまで及んでいくのです。
 また、これらの功徳の実証は、ひいては父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことにもなるのです。

 このように、御本仏大聖人の大慈大悲による仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって三世にわたる福徳がそなわり、清浄にして自在な仏の境界を実生活のなかに現していくことができるのです。これが六根清浄であり、即身成仏の大功徳なのです。
 このほかにも、大聖人の仏法実践の功徳は、転重(てんじゅう)軽受(きょうじゅ)(重きを転じて軽く受く)・変毒為薬(へんどくいやく)(毒を変じて薬と為す)・現世安穏(げんぜあんのん)後生善処(ごしょうぜんしょ)(現世安穏にして後に善処に生ず)・罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)(過去の悪業が消滅する)など、功徳の原理とその実証は無限の果報としてそなわっています。これらの功徳も御本尊へのたゆむことない清浄な信心によって得られるのです。