日蓮大聖人の御生涯
 
1、御誕生.出家
御 誕 生

  日蓮大聖人は、貞応元年(一二二二)二月十六日、安房国(千葉県)長狭郡東条郷小湊の漁村に、三国大夫(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として御誕生され、幼名を善日麿と名づけられました。
 大聖人は、この御自身の出生について、
 「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり」(佐渡御書 新編五八○)
 「日蓮は安房国東条片海の石中の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄 新編四三八)
等と、当時の身分制度の中でもっとも低いとされる階層より出られたことを述べられています。このことは、大聖人が「示同凡夫」のお立場より、下根下機の末法の一切衆生を救われるという、仏法上の深い意義によるものです。
 大聖人の御誕生当時における世相は、前年の承久三年(一二二一)に朝廷方が北条義時らの鎌倉幕府に敗れ、しかも後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が流刑に処せられるという未曾有の大事件(承久の乱)が起こるなど、「下剋上」の混乱がそのまま五濁悪世の末法の様相を示していました。


立願・入門

 善日麿の幼少期、世間においては悲惨な事件が相次ぎ、大風雨や干ばつなどの天災によって大飢饉も発生し、世情の不安は募るばかりでした。聡敏な善日麿は、前の承久の乱をはじめとする数々の凶相は何によるのかという疑問を持つに至り、これらの社会の混乱を解決するため、天福元年(一二三三)十二歳のとき、「日本第一の智者」となるために学問を志して、小湊にほど近い清澄寺の道善房のもとへ入門されました。入門後の善日麿は、主に兄弟子の浄顕房・義浄房の二人から、一般的な教養と仏典を中心とした読み書きを学び、生来の才能と求道心によって、その智解を深めていきました。
 このようななかで、入門以前からの疑問が善日麿の心中で次第に明確な形となって表れてきました。
 その一つは、承久の乱において、天皇方は鎮護国家を標榜する天台真言等の高僧により、調伏の祈祷をあらんかぎり尽くしたにもかかわらず惨敗し、三上皇が島流しに処せられてしまったのは何故か。
 二つには、安房地方の念仏を唱える行者の臨終が苦悶の姿、悪相を現じたのは何故か。
 三つには、釈尊の説いた教えが各宗に分かれ、それぞれ優越性を主張しているが、釈尊の本意はただ一つなのではないか、というものでした。


出家・諸国遊学

 善日麿は十六歳のとき、前の疑問の解決と仏法の真髄を究めるために出家得度し、名を是聖(生)房蓮長と改め、日々の修行に精進し、昼夜を分かたず研学に励まれました。
そして二年後の春、清澄寺所蔵の経巻・典箱をことごとく読み尽くした蓮長は、さらに深い研鑽の志を抱いて、諸国へ遊学の旅に立たれました。この遊学は後年、
 「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に云々」(妙法比丘尼御返事 新編一二五八)
 と述べられているように、多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉や、当時の仏教の中心地ともいうべき比叡山延暦寺をはじめとする古刹を歴訪される旅で、それは十四年間にもわたりました。 このような長い修学のなかで会得されたことは、一には諸宗が釈尊の本義に背き、すべての災いの根元であるということ、二には末法に弘めるべき法は法華経の肝心たる妙法五字であり、自身こそ、この要法をもって末法濁悪の世を救済する「地涌上行菩薩の再誕」であるとの自覚でした。