立宗宣言 遊学の旅を終えられた蓮長は、建長五年(一二五三)の春、三十二歳のときに故郷・小湊の清澄寺に帰山され、深い思索を重ねた後、いかなる大難が競い起ころうとも「南無妙法蓮華経」の大法を弘通しなければならないとの不退転の決意を固められました。 そして四月二十八日、蓮長は夜明け前より清澄寺・嵩が森の頂に歩みを運ばれ、昇り来たる太陽をはじめとする宇宙法界に向かって、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」と題目を唱えられ、宗旨を建立されました。 このときの心境を、後に日蓮大聖人は、 「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に比の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ」(開目抄 新編五三八) と述懐されています。 大聖人の唱え出された「南無妙法蓮華経」は、 「仏記に順じて之を勘ふるに既に後五百歳の始めに相当たれり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(顕仏未来記 新編六七八) 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄 新編一○三六) と仰せのように、一切衆生救済のために「東土の日本」より出現し、末法万年・未来際にわたって全世界に流布していく古今未曽有の独一本門の題目であったのです。 日蓮の二字 宗旨建立を機に蓮長は、今までの名を自ら改めて「日蓮」と名のられました。 これは、法華経『涌出品第十五』の、 「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」(開結四二五) の経文と、『神力品第二十一』の、 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(開結五一六) との経文に由来するものです。このことについて大聖人は、 「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」(四条金吾女房御書 新編四六四) と示されています。 すなわちこの「日蓮」の御名のりは、あたかも太陽が一切の暗闇を照らし、蓮華が汚泥より生じて清浄な花を開くように、日蓮大聖人御自身こそ、末法万年の一切衆生の闇を照らし、濁悪の世を清浄にするために出現された上行菩薩の再誕を明示されているものなのです。 さらに、 「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」(寂日房御書 新編一三九三) と仰せられ、自らが仏の境界であることを示されています。 初転法輪 立宗をされた後、大聖人はその日の午の刻(正午)、清澄寺・諸仏坊の持仏堂においてはじめて妙法弘教のための説法の座に登られました。そしてその座において、当時、もっとも流行していた念仏や禅宗等の誤りを指摘され、法華経こそが最高の法であり、末法の衆生はこの教えによってのみ救われる所以を力強く説かれました。 念仏の強信者である地頭の東条景信は、この説法を聞いて烈火のごとく怒り狂い、その場で大聖人の身に危害を加えようとしました。 このことはまさに法華経『勧持品第十三』に 「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」(開結三七五) と説かれる経文が、そのまま事実となって現れたものでした。 しかし、大聖人はこの危機を浄顕房・義浄房たちの助けによって逃れられ、景信の領地外である花房の地に身を寄せられました。 その後、大聖人は両親への真の孝養を果たすべく、小湊にいる父母の元を訪ね、諄々と法の道理を説いて教化し、御父に「妙日」、御母に「妙蓮」という法号を授けられました。 |