日蓮大聖人の御生涯
 
4、佐 渡 期
  竜口法難(発迹顕本)

 文永八年(一二七一)九月十二日、日蓮大聖人は、松葉ケ谷の草庵から鎌倉の街中を重罪人のように引き回されて評定所へ連行され、平左衛門尉より「佐渡流罪」をいい渡されました。しかしこれは表向き評決であって、内実はひそかに大聖人を斬罪に処する計画が企てられていました。事実、深夜になると大聖人は処刑のために竜口の刑場へ護送されています。
 その途中、鶴岡八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬から下りられ声高に、
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(種々御振舞御書 新編一〇五九)
と叱責し、法華経の行者に対する守護はいかばかりかと八幡大菩薩を諫められました。また由比ヶ浜をとおり過ぎたところで、大聖人は熊王丸という童子をつかわして四条金吾に事の次第を知らせると、金吾はただちに大聖人のもとに駆けつけ、殉死の覚悟で刑場までお供しました。刑場に到着したとき、金吾は思わず嗚咽しましたが、大聖人は、
 「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるゝぞ」(種々御振舞御書 新編一〇六○)
とたしなめられました。その処刑の瞬間、突如として江ノ島の方角より月のような光り物が南東より西北に光り渡り、大刀取りはその強烈な光に目が眩んで倒れ伏せました。取り囲んでいた兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏すなどのありさまで、結局、大聖人の命を絶つことができませんでした。
 この大聖人の身のうえに起こった竜口における法難は、これまでの上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)を発って、久遠元初自受用報身如来即日蓮という真実の姿(本地身)を顕わされたという重大な意義をもっています。これを「発迹顕本」といいます。
 このことについて大聖人は、
 「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて云々」(開目抄 新編五六三)
と明かされています。この「魂魄」とは、まさに久遠元初の自受用身としての魂魄であり、大聖人はこの竜口法難という身命を堵する大法難のなかで、久遠元初の御本仏としての御境界を開顕されたのでした。

  
佐渡配流

 竜口における頸の座の後、大聖人は、相模国依智(神奈川県厚木市)の本間邸に一カ月近く拘留されました。そして文永八年(一二七一)十月十日、佐渡配流のために依智に出発されました。そして同月二十八日に佐渡の松ケ崎へ着き、十一月一日には配所である塚原の三昧堂へ入られました。
 厳寒の地・佐渡の三昧堂での御生活は、
 「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(種々御振舞御書 新編一〇六二)
と記されているように、このうえなく厳しい状態でした。しかも島民たちは念仏信者であり、大聖人常に身の危険にさらされていまして。
 このようななか大聖人は、翌年の一月十六日、塚原において領主・本間六郎左衛門の立ち会いのもと、数百人の諸宗の僧らを相手に問答し、これらをいとも簡単に打ち破られました。問答が終わり立ち去ろうとする六郎左衛門に対し、大聖人は、近いうちに鎌倉に戦が起こる旨の予言をされました。
 その一カ月後、大聖人の予言は「二月騒動」という北条一門の同士討ちとして現れ、この予言的中により、島民の中には大聖人に畏敬の念を抱く者たちが出てくるようになりました。
****************************************************************
二月騒動

 執権北条時宗の異母兄で南方六波羅探題であった北条時輔と、一番引付頭の北条(名越)時章並びに評定衆の名越教時らが、時宗排斥の謀反の嫌疑をかけられ、幕府によって誅殺された事件をいいます。時宗は、蒙古に対する外交政策などで対立する時輔に謀反の意図ありとして、文永九年(一二七二)二月十一日、大蔵頼季らをつかわし、時輔と気脈をつうじていた名越教時と仙波盛直らを鎌倉で誅殺しました。このとき教時の兄である時章が誤って殺されました。さらに二月十五日早朝、北方六波羅探題の北条義宗に命じて、南方の時輔を急襲し、討ち滅ぼしました。この事件は、執権職をめぐって北条氏最上層部で繰り広げられた内乱でした。

****************************************************************

  
佐渡期の御著作

 日蓮大聖人は、佐渡配流中において『生死一大事血脈抄』『諸法実相抄』『当体義抄』等、五十篇を越える多くの御書を著されています。その代表的な著述書に『開目抄』と『観心本尊抄』があげられます。
 『開目抄』は文永九年(一二七二)二月、紙や筆の乏しい極寒の塚原三昧堂において著されました。この書は、当時鎌倉の弟子や信徒たちのなかで、大聖人の佐渡配流によって信心に動揺をきたす者が出てきてという一門の危機にあたり、それらへの指導と、さらには仏法の無知な末法の衆生の盲目を開かしめることを目的として書かれたものでした。
 この『開目抄』には、身命に及ぶ法難を受ける日蓮大聖人こそが法華経の行者であることが示され、さらに末法における主師親三徳兼備の仏が御自身であることを明示されており、このことから同抄は「人本尊開顕の書」といわれています。
 『観心本尊抄』は、翌年の四月二十五日、一谷において著されました。この書は
 、
 「日蓮当身の大事」(観心本尊抄副状 新編六六二)
と示される重要書で、その内容は、末法のはじめに本仏大聖人が出現し、一切衆生のために寿量品文底下種の本尊を建立されることが明かされています。このことから当抄は「法本尊開顕の書」といわれています。
 大聖人は、
 「法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄 新編一二〇四)
と仰せられ、発迹顕本される以前と以後との法門とその御化導には、大きな違いがあることを教示されています。すなわち、佐渡以前は上行菩薩の再誕として題目弘通を中心とした御振る舞いでしたが、発迹顕本されて以後は、御本尊を顕わされ、末法の御本仏としての御境界のうえから御化導されているのです。

 
赦 免

 文永十一年(一二七四)に入ると、再び蒙古の使者の到来により、「他国侵逼難」が現実味を帯びてきました。さらに天変地夭も相次いで起こり、世情はますます混乱し、民衆は不安な日々を過ごしていました。執権北条時宗はこれらの事相が大聖人の予言どおりであり、さらに大聖人を流罪に処する根拠のないことに気づき、二月十四日、佐渡流罪の赦免状を発したのです。
 この赦免状は三月八日に届き、これを受けて大聖人一行は十三日に一谷を立たれました。途中、大聖人に殺意を抱いていた越後や信濃の念仏者たちは、善光寺に集まり待ち伏せをしていましたが、兵士警固によって大聖人は無事、二十六日、鎌倉の地に到着されたのです。
 この二年半の佐渡流罪中、日興上人は大聖人に給仕を尽くされ、また阿仏房夫妻・国府入道夫妻・最蓮房・中興入道等が大聖人に帰依しました。