日蓮正宗の年中行事 
「大日蓮 平成24年10月号」
目 師 会(日目上人御講) 
  本宗の第三祖日目上人は、問答に秀でられたお方でした。
 また、宗祖日蓮大聖人や第二祖日興上人に代わって天皇や将軍に国家諌暁の『申状』を奏上すること、実に四十二度にも及んだと伝えられます。また、大聖人のおそばで常にお給仕に励んだお姿は、信心をする者すべての鑑として、長く門葉の讃仰するところです。
 その御高徳を拝する末弟・信徒は、報恩の誠を尽くすため、祥月命日の十一月十五日に日目上人御正当会を奉修します。これが目師会という行事です。

 日興上人との出会い
 日目上人は、藤原北家の御堂関白道長の庶流、下野国(栃木県)の小野寺氏から出た奥州(宮城県)三迫の新田五郎重綱を父とし、伊豆国(静岡県)南条兵衛七郎の娘で南条時光の姉(蓮阿尼)を母として文応元(一二六〇)年、伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県函南町畑毛)で御誕生になり、幼名を虎王丸と言いました。
 文永九(一二七二)年、十三歳の時に出家得度を志して、伊豆の走湯山円蔵坊に登りました。

 文永十一(一二七四)年、日興上人がこの寺を訪ね、山内第一の学匠と言われていた式部僧都と法義の問答をされました。その折、かたわらで問答を聞いていた日目上人は、小童ながらも、日興上人の説く正義に深く心を打たれ、弟子入りを願い出たのでした。

 常随給仕を尽くされた日目上人
 二年後の建治二(一二七六)年の十一月に、日興上人を慕って身延山へ登り、剃髪して宮内卿公と名付けられました。この名を略して、交名(出家後の通称)で「卿公」と呼ばれるところとなり、そののちも「卿阿闍梨」、また新田の氏をとって「新田卿阿闍梨」とも言われるところとなりました。
 身延山では、日興上人には無論のこと、大師匠の日蓮大聖人にも御入滅の日まで常随給仕し、大聖人から甚探の法義を授けられました。
 日目上人はとても行体が堅固なお方で、日に何度も身延の谷河へ下って水を汲み、桶を頭に載せて運ばれたので自然に頭の頂がくぼんで平らになったと伝えられ、日目上人の御影像にもそれが表されています。

 問答に秀でられた日目上人
  日目上人は、法義の造詣も深く、優れた弁論家でもありました。弘安五(一二八二)年に大聖人が武蔵国池上右衛門大夫宗仲の館で休養されていた時、鎌倉幕府の二階堂伊勢守の子で、比叡山の学僧・二階堂伊勢法印が大勢の供を引き連れ、親の権威を嵩に着て大聖人に問答を挑んできました。その時、おそばに控えていた老僧達は大いに驚きましたが、大聖人は「それはたやすいこと、卿公に相手させよ」と仰せられたので、早速、日目上人が大聖人の代理として伊勢法印と問答されました。
 ここでは、第一番の「即往安楽世界阿弥陀仏」に関するものから始まって十番の問答が行われましたが、日目上人は伊勢法印を一々に屈伏させ、その場に居合わせた一同を感歎させました。
 この法論の次第をお聞きになった大聖人は「そうであろう。私が見込んだだけのことはある」と、御満足の様子でこの功績を愛でられ、日目上人に「御生骨(大聖人の御歯)」を授けられたということです。


 日興上人の跡を紹継
 弘安五年十月、大聖人が御入滅ののちは、常に第二祖日興上人に仕え、正応二(一二八九)年、日興上人が謗法の山と化した身延山を離れ、富士・上野に移られるに当たっては、その片腕として大いに師を授けました。
 翌正応三年十月十二日、南条時光殿の外護によって大石ガ原に大石寺が創建されました。まず中枢となる日興上人の六壷の間(大坊)が出来上がると、日目上人は早速、その東側に蓮蔵坊を建立して住まわれ、大御本尊をはじめ、日興上人の御守護・お給仕に励まれました。草創間もない大石寺の維持経営についても、俗縁関係の深い南条・新田・石川家等を励まし、尽力されました。
 日興上人も、行体や弘教において、先輩格の日華師・日秀師より一段と勝れた日目上人を、ことのほか重んぜられ、本六僧の筆頭とされたほどです。
 また、この大石寺建立を契機に、日興上人から法の内付を受け、「御座替わり御本尊」を授与されました。そして永仁六(一二九八)年、日興上人が重須(現在の静岡県富士宮市北山)へ移られてからは、事実上、住職として大石寺を守られました。
 元徳二(一三三〇)年十一月には、日興上人から『日興跡条々事』を授けられて、本門弘通の大導師と定められ、名実ともに一門を統率する立場に立たれました。
 日目上人の公家、武家への諌状は御一生中、四十二度にも及んだと伝えられ、大聖人、日興上人の志を奉じて、実に勇猛果敢に国家の謗法諌暁のために闘われました。
 そして元弘三(一三三三)年に北条氏が亡び、王政が復古したのを機に天奏を決意し、同年十月、第四世日道上人に法を譲り、七十四歳の老体にもかかわらず日尊・日郷の二師を従え、京都を目指して旅立たれました。
 しかし途中、美濃(岐阜県)の垂井の宿で病に倒れられ、雪をまじえた伊吹颪の吹きすさぶなか、日尊・日郷の両師に看護されながら天奏のことを両師に託し、御入滅になりました。
 この日目上人の身命をなげうって広宣流布に努められた御精神は、永遠に受け継いでいかなければなりません。
 宗門においては、法のため、国のため、一切民衆救済のため、老体をも顧みない日目上人の不惜身命の尊い行体を鑑とし、祥月命日に当たる十一月十五日に、御報恩の法要を真心をもって奉修しているのです。