日蓮正宗の年中行事 
「大日蓮 平成23年12月号」
興師会(日興上人法要) 
 年中行事の意義は、日蓮正宗総本山大石寺に伝わる深遠な仏法を正しく伝えるとともに、僧俗が親しく行事に参加することによって、仏縁を深め、もって広宣流布への前進を期するところにあります。

 正法正義を守りぬかれた日興上人
 
興師会は、第二祖日興上人の祥月命日に当たる二月七日に、総本山をはじめ、各末寺においても執り行われます。これは、日蓮大聖人から仏法の正義を受け継がれ、後世にまで正しく法灯を伝えてくださった日興上人に対し奉り、僧俗一同が心から御報恩申し上げるために厳修する法要です。
 私達が今、宿縁深厚にして大聖人の仏法に値い、人生最大の目的である成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を堅く守りぬかれた日興上人がおわしましたからであり、それ故に本宗では「僧宝の随一」として崇めています。よって、その末弟に連なる者が深い感謝の念を持って、御報恩のため、日興上人御入滅の二月七日に法要を営むのは当然と言えましょう。
 総本山では、二月七日はもちろんのこと、毎月七日にも「報恩講」といって、御影堂において御法主上人猊下御出仕のもと、日興上人御報恩の法要が行われています。
 明治年間に記された『年中行事』のなかから、興師会のところを見ると、
「六日、早朝雲板にて満山大坊に集まりメンドリ窪え下男一人召し連れ出張、助番の当番は地主え立寄り『御開山会の芹を摘みに来たる』由を申入れるなり、メンドリ窪にて莞草桑枝二本ずつ木二本取り来るなり(中略)芹は七日朝重箱に入れ進物台にのせて上げるなり、料理出来次第客殿え御膳上げるに雲板にて御本番来たり、共に御膳こしらえ上げ次第、半鐘太鼓にて御前御出仕、御経世雄偈寿量品引題目終て満山え御膳を出す、御流れ頂戴の事。七日、衆会例の如し、早朝大梵鐘をつくべし、料理前日の如し、いり豆に桑の箸を付け、芹の重箱に薄の箸つけて備ふべし、仕度出来次第雲板にて客殿に来集、御膳上がり次第半鐘太鼓にて御前出仕、御経世雄偈寿量品引題目終て一同え御膳出す、万事六日の通り御流れにて豆芹は取り回しの事」
とあります。
 もちろん、年中行事は化導の儀式なので時代によって多少の変化はありますが、現在でもほとんど昔のとおり行われています。
 右のなかに芹摘みのことが出ていますが、昔から興師会には芹をお供えする習わしになっています。

  若芹を愛好された日興上人

 伝えによると、日興上人は粗衣粗食であらせられ、八十八歳の御老躯に至るまで、お弟子が摘まれた若芹を常に愛好されたということです。それで現在でも興師会の前日、総本山では寒風が肌を刺すなかを、御助番僧等が青々とした若芹を摘み、御宝前にお供えしています。また、これにはお初物を差し上げる意味も含まれていると思われます。
 日興上人のお手紙にも、
「せり・御すの御はつを仏にまいらせて候。いまだいづちよりもたび候はず」
の文が拝され、芹摘みの行事は七百年前の、第二祖日興上人に対するお弟子方の給仕の面影を、ほうふつとさせるものがあります。

  日興上人の御略歴
 ここで日興上人について少し述べてみましょう。
 日興上人は寛元四(一二四六)年三月八日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県富士川町)にお生まれになりました。
「師生れながらにして奇相あり特に才智凡ならず」(富要五−三六二n)
と、総本山第五十二世日霑上人の『日興上人略伝』にもありますが、幼少のころから既にその非凡であられたことが想像されます。
 幼くして父親を失ったため、駿河国富士上方河合(現在の静岡県富士宮市)に住む外祖父・由比入道に養われ、付近の蒲原荘(現在の静岡市清水区)の四十九院に上って仏法を学び、兼ねて良覚美作阿闍梨から漢学を、冷泉中将隆茂について歌道・書道を究められました。
 特に能筆の才腕はすばらしく、後年、日蓮大聖人のお手紙を代筆されたり、重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその見事な、数多い御筆跡を拝することができます。
 正嘉二(一二五八)年、大聖人が『立正安国論』御執筆に当たり、駿河加島荘岩本(現在の静岡県富士市)の実相寺において一切経を閲覧された時、久遠の師資ここに相い会し、日興上人が十三歳の時、大聖人の弟子となられました。それ以後は、内に在っては影の形に随うが如く、常に大聖人のお側を離れずお給仕申し上げて弟子の道を尽くし、外に在っては、甲斐・駿河・伊豆・遠江の各地において折伏弘教の大法将として活躍されました。
 特に、弘長元(一二六一)年五月の伊豆御流罪、文永八(一二七一)年十月の佐渡御流罪には、大聖人と艱苦を共にされました。このように、師に対する不断の給仕と熱烈な信仰により、師弟相対の上から、おのずと大聖人の真の教えを会得されたのです。
 先にも述べたとおり、日興上人の折伏はすさまじいものがあり、あの壮烈を極めた熱原法難も、その大折伏に対して引き起こされたものでした。しかし、大聖人の指導と日興上人の指揮によって、信徒は一致団結して退転することなく、死地に在っても従容泰然として声高らかに妙法を唱えたのです。
 弘安五(一二八二)年九月に、大聖人から一切の仏法を付嘱され、十月十三日には身延山の別当としての付嘱も受けられました。

 身延を御離山、広布の基盤を富士の地に

大聖人滅後、関東方面の五老僧達は権勢を恐れて軟化し、諸々の師敵対謗法を犯し、次第に大聖人の正義を失いましたが、日興上人はいささかも教義を曲げることなく、正義を守りぬかれました。身延に在ること七年、地頭・波木井実長の四箇の謗法により、身延の山もついに魔の栖と化してしまい、断腸の思いで去ることを決意されました。これもひとえに、
「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉るべき仁」(日蓮正宗聖典五六〇n)
との信念によるものと拝されます。
 そして戒壇の大御本尊をはじめとして、すべての御霊宝を富士へお移しし、大聖人の御遺命によって広布の基盤をこの地に定められました。富士山に本門戒壇を建立するということは深い御仏意によることであり、日興上人によってその第一歩が印されたのです。
 後年、五老僧中の日朗師は日興上人のもとに来て前非を悔い、また日頂師も富士に帰伏しています。これらの史実は「大聖人の仏法、富士に在り」という明らかな証拠と言えましょう。
 富士へ移った日興上人は、南条時光殿の寄進により、正応三(一二九〇)年十月十二日に大石寺を創立して戒壇建立の基礎を築かれるとともに、第三祖日目上人を正法伝持の後継者とお定めになり、大聖人よりの血脈法水を内々に付嘱あそばされました。
 そして、永仁六(一二九八)年二月十五日に、日目上人に大石寺を譲られ、御自身は富士重須の地(現在の静岡県富士宮市北山)の地に談所を開創され、門下の育成に当たられました。
 かくて本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、八十八歳の長寿を全うされ、元弘三(=正慶二年一三三三)年二月七日、薪尽きて火の滅するが如く、安祥として富士重須の地において御入滅されました。
 大聖人滅後七百五十年、室町・戦国時代の動乱のなか、また布教活動弾圧の江戸時代を経て、連綿として法灯が厳護されてきた根源は、この日興上人の死身弘法、令法久住のお働きがあったからこそと言えます。
 この日興上人の御精神を精神として、広宣流布を目指し、僧俗一致して前進することが、御鴻恩に報い奉る唯一の道であり、興師会を奉修する精神なのです。