日蓮正宗の年中行事 
「大日蓮 平成24年 2月号」
彼岸会(春季・秋季) 
 彼岸会は、我が国の仏教一般に広く行われている行事の一つで、春と秋の二回、行われます。つまり、春分と秋分の日を中日とし、それぞれ前後七日の間に修する法要が彼岸会です。

彼岸会の意味
 この彼岸会は、インドや中国では行われた様子はありませんが、我が国では、古く聖徳太子のころから行われていたようであり、日本独特の風習と言えます。
 その内容は、時代によって移り変わりがありましたが、現在では世間一般に先祖の追善供養をすることが主になっており、その表れとしてお寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りをすることが通例となっています。
 この彼岸会の本来の意味を考えてみますと、彼岸という言葉は、梵語の「パーラミーター」という語から来ています。パーラミーターは「波羅蜜」と音訳し、「到彼岸」または「度」つまり渡ると意訳します。
 仏教では、私達が生活しているこの世界を穢土、または娑婆世界と言い、苦しみや悩みの世界であると説いています。そして、この娑婆世界を此岸、つまり此ちらの岸に譬え、煩悩・業・苦の三道という苦しみの根源を大河の流れに譬え、涅槃、つまり成仏の境界を彼岸に譬えるのです。
 穢土の此岸から生死の苦しみの大河を渡って、彼岸の楽土に到達するためには「仏の教え」という船に乗らなければなりません。
 ところが、この船にも、「小乗」といってごくわずかな人しか乗れない小さな船もあれば、大勢の人が乗れる安全な「大乗」の船など色々あります。日蓮大聖人は『薬王品得意抄』に、
「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり。生死の此の岸より生死の彼の岸には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(御書三五〇n)
と仰せられ、本当の彼岸に到達できるのは大聖人の仏法、大御本尊の大船でなければならないとお示しくださっています。それは、大聖人の教えは仏法の究極である事の一念三千の法門であり、その用きとして煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光という、即身成仏の要道を説き明かされたものだからです。
 『一生成仏抄』には、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(同四六n)
と仰せられ、彼岸といっても極楽の別世界があるのではなく、此岸、つまりこの世で成仏することこそ、本当の成仏であると示されています。ですから、念仏宗のように西方十万億土に理想の別世界があるというのは、おとぎ話に過ぎないのです。

一般仏教における彼岸
 また、一般仏教においては、彼岸に到達するために六波羅蜜という修行を説いています。これは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの修行方法であり、成仏を志す菩薩が、幾度となく生まれ変わり、永遠とも言える長い間修行して、初めて成就できる歴劫修行です。このような修行は、末法の私達にはできるものではありません。
 そこで大聖人は、『観心本尊抄』(御書六五二n)のなかに、無量義経の、
「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」(法華経四三n)
との文を引かれ、私達が御本尊を受持することによって自然に六波羅蜜の修行が達成され、彼岸、すなわち成仏の境界に到達できると説かれています。
 これは、大聖人の仏法が、すべての根本である久遠元初人法一箇独一本門の本法であり、八万四千の聖教も妙法蓮華経の五字に収まり、六度万行の修行もすべて妙法五字を受持する「信」の一行に収まるからです。故に、大聖人の仏法こそ、末法の私達にとって最も適した、行じやすい修行だということになります。

大御本尊を信ずることによって彼岸に到達できる
 私達が御本尊を受持信行するその一行のなかに、菩薩達の広大な六波羅蜜の修行と功徳のすべてが含まれているとは、なんとすばらしいことではありませんか。
 まず、布施波羅蜜のなかには、財施・法施・無畏施の三つがありますが、御本尊に御供養申し上げるのは財施、折伏をするのは法施、広宣流布して常寂光土を建立していくことは無畏施になります。
 また、持戒波羅蜜とは、御授戒を受け、謗法を行わないということであり、忍辱波羅蜜とは、折伏の時に慈悲の心をもって忍耐することであり、精進波羅蜜とは、退転なく水の流れるような信心を続けることであり、禅定波羅蜜とは、御本尊の前に端座して勤行唱題することであり、智慧波羅蜜とは以信代慧の法理を心得て信行学に励むことです。
 このように、大御本尊を信じ、真剣に信心に励むことによって、菩薩の歴劫修行である六波羅蜜がすべて成就され、最も力強い仏の生命を感じつつ、この世の中で彼岸に到達し、即身成仏することができるのです。
 このように見てくると、彼岸の本来の意義は、まず生きている私達自身が即身成仏して幸福な境界を切り開くことが大切であり、その功徳をもって先祖の追善供養をすることが重要です。
 本宗では、これらの意味から常盆・常彼岸という精神をもって仏道修行をするのであり、他宗で言う彼岸とは全くその趣きを異にしています。つまり、毎日の信心修行が既に彼岸の修行であるわけです。

 春秋の彼岸会
 それでは、本宗においてなぜ春秋の彼岸会を修するのかといえば、まずこれが積功累徳(功徳を積み重ねていくこと)という仏法の精神より起こった行事であるからです。
 彼岸会の本来の意義は今までに述べてきたように、即身成仏して幸福な境界を得るための儀式であり、しかも、この時期は世間においても「暑さ寒さも彼岸まで」と言われているように、一年中で最も気候の良い時でもあり、この良い時節に成仏のための功徳善根を積むということは、まことに意義深いことです。
 また、この日は昼と夜の時間が同じですが、これは陰陽同時・善悪不二を表するものであり、仏教ではこの時を非常に重要視します。故に、この時に善行を修する功徳は、ほかの時に修する功徳よりも勝れていると言うことができます。
 この日こそ、私達にとっては彼岸に到る絶好の機会であると言わなければなりません。

彼岸会は衆生教化に通ずる
 次に、この彼岸会は本宗における衆生教化の一つの方法であるからです。
 およそ彼岸会は、日本国中、知らない人はいないほど一般的な行事となっています。大聖人は『太田左衛門尉御返事』に、
「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書一二二二n)
と仰せられ、また『白米一俵御書』には、
「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には『若し深く世法を識れば即ち是仏法なり』と」(同一五四五n)
とも仰せられています。
 つまり、世間法即仏法であるならば、私達の心構えとしては、世間一般化した彼岸会を御本尊の大善行のなかに転換引入し、すべて御本尊の祭りとして盛大に行うべきと言えましょう。
 また、仏法で説くところは四恩報謝でありますが、このなかでだれにでもすぐできる一番簡単な修行は、父母祖先への知恩報恩です。
 故に、彼岸会のこの日に御本尊に御供養し、先祖の塔婆を立てて回向するならば、この一番簡単な善行が大善行となって到彼岸の要因となるのであります。
 それに対し、他宗で行われる法要は一切無益であり、我が日蓮正宗で行われる法要こそ、真の先祖供養であり成仏の要道となるのです。
 私達は彼岸会の本来の意義をよく弁え、さらにこの日を期して信心強盛に、自行化他にわたる折伏行に励み、即身成仏を願いきっていくことが最も肝要なのです。