日蓮正宗の年中行事 
「大日蓮 平成24年4月号」
大行会(南条時光法要) 
 五月一日に奉修される大行会は、総本山大石寺の開基檀那である大行尊霊、俗名・南条七郎次郎時光殿の祥月命日忌の法要です。

 南条時光殿の功績
 
南条時光殿は、第二祖日興上人が地頭・波木井実長の謗法によって身延を離山された時、自領にお迎えしました。大聖人御入滅後七年目の正応二 (一二八九) 年のことです。さらに、本門の戒壇建立にふさわしい景勝の地、富士山麓の大石ガ原を御供養して、日興上人と共に総本山大石寺の基礎を築き、広宣流布のために闘った、信徒の模範とすべき方です。

  日蓮大聖人と南条家

 南条氏は、もともと伊豆の南条(現在の静岡県伊豆の国市南条)に住み、のちに富士の上野(現在の富士宮市、大石寺の所在地)に移ったので「南条殿」とも「上野殿」とも呼ばれていました。
 時光殿の父・兵衛七郎殿は、鎌倉幕府に仕えていた関係から、当時、鎌倉で正法を盛んに弘通されていた大聖人にお会いして信仰に入り、純真な信心をしていたのですが、惜しくも文永二(一二六五)年三月八日、時光殿が七歳の時に病気で亡くなりました。大聖人は、兵衛七郎殿の死を深くいたみ、富士上野までわざわざ足を運ばれ、その墓参をされています。
 それから九年後の文永十一(一二七四)年五月、佐渡から帰られた大聖人が身延の山へお入りになりました。やがて、このことを伝え聞いた南条家では、様々な御供養の品を取りそろえ、身延へお届けしたところ、大聖人は直ちに筆を執って、
「をんかたみに御みをわかくしてとヾめをかれけるか。すがたのたがわせ給はぬに、御心さえにられける事いうばかりなし」(御書七四一n)
と、丁重な御返事を認められました。

  日興上人と南条家

 翌文永十二年の正月、大聖人は故兵衛七郎殿の墓参のために、日興上人を南条家に遣わされました。これを機に、日興上人と南条家との深い縁が結ばれたのです。
 このころ、日興上人は富士山麓一帯にわたって折伏を展開しておられましたが、時光殿も日興上人に随い、一生懸命に大聖人の教えを弘めました。そして、親戚の松野殿、新田殿、石川殿等にも正しい信仰を勧め、これらの人々を入信に導いたのです。
 また、日興上人の弘教は富士下方 (現在の静岡県富士
市) にも及び、天台宗滝泉寺の僧侶であった日秀・自弁・日禅の各師や近くの人々がたくさん改宗し、大聖人の弟子檀那となりました。

 熱原法難

ところが、滝泉寺院主代理の行智という悪僧をはじめとする他宗の人々はこれを快く思わず、権力者の力を借りて激しい迫害を加え、有名な熱原法難が起きました。
 この法難は、建治元(一二七五)年ごろから始まり、弘安二(一二七九)年に至ってますます激しくなって、ついにこの年の九月には、行智等の陰謀によって熱原の百姓二十人が、いわれのない罪によって鎌倉に送られたのです。いかに改宗を迫られても正しい信仰を守りぬいた神四郎等の中心者三人は、幕府の高官・平頼綱の枉断により、首を斬られるに至りました。
 この法難に対して時光殿は、大聖人・日興上人の指導を受けて、熱原の信徒達を団結させ、あるいは身に危険の迫った人々をかくまうなど、命をかけて謗法者の弾圧と闘いました。

  南条時光殿の信心

この時光殿の働きに、大聖人は深く感激されて「上野賢人」との名を贈られました。これは、他に全く例のないことであり、時光殿が二十一歳の若さであったことを考えれば、その活躍のすばらしさが判ります。
 法難が一往、落ち着いたあとも、他宗の人々は幕府の高官と結んで南条家に無理な税金や工事を押しつけるなど、色々な手を用いて迫害を加えてきました。けっして豊かではない南条家にとって、これらの税金や工事は経済的に大きな痛手でした。しかし、時光殿をはじめ一家は窮乏に負けず、大聖人に常に御供養を続けたのです。その姿を御書に、「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとお甘ひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へる云云」(同一五二九n)
と仰せられ、その信心を賞されています。これは、大聖人への深い恋慕渇仰の表れにほかなりません。
 弘安五(一二八二)年、二十四歳の時、時光殿は突然、病に倒れました。大聖人は早速、病気の快復を祈られ、日興上人を使いとして『法華証明抄』(御書一五九〇n)を送られました。仏力・法力・信力・行力の功徳によって、さしもの病もたちまちに治り、その後、七十四歳まで健康と長寿を保つことができました。
 このほか、時光殿の熱烈純真な信仰に対し、大聖人から賜った数多くのお手紙は、宗門僧俗の信心の指針として御書に編集され、多くの人に拝読されています。
 弘安五年十月十三日、大聖人の武蔵国池上(現在の東京都大田区)での御入滅に当たって、時光殿は葬儀に馳せ参じ、散華の役を勤めました。また、日興上人が御遺骨を奉じて身延にお帰りになる途中、南条家に一宿されたのも、その深い信心の縁によるものでしょう。
 大聖人御入滅ののちも、門下の総帥である日興上人に対して、大聖人に仕えるのと同じように信伏し、七年後の正応二(一二八九)年春、身延の地頭・波木井実長の謗法のために、やむなく身延を離山せられた日興上人を、自領(現在の下之坊)にお迎え申し上げたのです。
 さらに「富士山に戒壇を建立せよ」との大聖人の御遺命をかしこみ、広宣流布の本拠地として、広大な大石ガ原を日興上人に御供養申し上げました。
 翌正応三年、ここに大坊が完成して大石寺の基礎が定まりましたが、その後も日興上人、第三祖日目上人以下、門下の僧侶を外護し、塔中の諸坊も次々に整っていきました。

 晩年の時光殿

 時光殿は晩年、世間的には左衛門尉の位に任ぜられ、仏道修行の上では入道して大行と名乗り、十三人の子供にも恵まれて、幸せな日々を送りました。また、一族、子孫からは第三祖日目上人、第四世日道上人をはじめとして、数多くの僧侶が出て総本山および宗門を守り、また在家の人々もそれぞれ外護に努めました。
 正慶元(一三三二)年五月一日、時光殿は生涯の師と仰いだ日興上人に先立ち、七十四歳の一生を安らかに終えました。現在も、総本山大石寺の南々西約二キロの高土の地に、その墓碑が建てられています。
 大行尊霊・南条時光殿の一生は、大聖人、日興上人に師弟相対の信心をもってお仕え申し上げ、富士の信徒の総大将として折伏を行い、広宣流布の根本道場である大石寺を建立寄進するなど、正法流布のための偉大な功績を残しています。
 この大行尊霊の功績を称えて、総本山においては毎年五月一日、御法主上人の大導師のもとに、客殿で大行会を奉修しているのです。