教学ノート
   大白法 平成28年6月16日付
21ページ 煩  悩
 煩悩とは、私たちの心身をかき乱し、悩まし、穢す、ありとあらゆる精神作用の総称です。つまり、私たちの生命に具わる、成仏するための障りとなる欲望や迷いの心のことを煩悩と言います。
 煩悩は、「百八煩悩」や「八万四千の煩悩」という言い方があるように、数多くあると言われています。天台大師は、そのように数多くの煩悩を、見惑(真実の道理に対する惑い)・思惑(諸事物を思慮して起こる惑い)・塵沙惑(衆生を自在に教化することができない妨げ)・無明惑(無数の煩悩の根源)に大きく分けています。このうちの見惑と思惑は合わせて見思惑とも言い、見思・塵沙・無明の三つの惑を三惑と総称します。
 また煩悩は「惑」や「縛」などという呼び方をされるように、一切衆生は煩悩によって悪行を犯し、その結果として苦悩の報いを受けて生死(迷いの世界)に縛られ続けるのです。
 そこで釈尊は、無数の煩悩によって迷いの世界から抜け出せない衆生を救済するために、多くの教えを説き、煩悩を断つことで悟り(成仏)に到達できると説かれました。
 法華経以前に説かれた爾前経では、成仏するためには生死を繰り返しながらたくさんの煩悩を徐々に断じていき、すべての煩悩を断じ尽くしたところに成仏があると説かれました。
 しかし、真実の教えである法華経に至ると、煩悩と菩提(仏様の悟り)は相反するものではなく、私たちの生命に共に具わっているものと明かされました。そして、根本においてこの二つは、本来、一体のものであり、煩悩はそのまま菩提となると説かれたのです。これを煩悩即菩提と言います。
 日蓮大聖人様は当体義抄に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書694)
と、南無妙法蓮華経を信じて唱える功徳によって、煩悩を直ちに菩提へと転ずる、即身成仏という仏法究極の利益を得られると仰せです。
 したがって私たちは、本門戒壇の大御本尊様に対する不惜身命の強盛な信心と唱題により、煩悩がそのまま成仏の因となり、その身そのままで成仏の大果報を得ることができるのです。

★ポイント

御法主日如上人猊下は、
「人々の苦しみや悩み、不幸、こういったものはどこから出てくるかと言うと、結局は煩悩から生まれてくるわけで、この煩悩が悪業の因縁を作り、そして、その悪業の因縁によって人々が苦しむのであります。それがずっと永遠に続くのでありまして、つまり苦しみがまた煩悩を生み、煩悩が悪業の因縁を作る、そして悪業の因縁によって苦しむ、そしてまた煩悩を作る、これを輪廻三道と言いますけれども、そこから抜け出すことができないのであります。
 この三道を法身・般若・解脱の三徳に転じていくのは、大聖人様の仏法以外にないのであります」(大白法 686号)
と仰せです。