おん しん ぼう
蓮 東 坊
平成21年4月3日撮影
  元禄年間、つまり元禄元年から同十六年までの間、西暦では(一六八八〜一七0三年)に遠信坊が建立された。
 遠信坊の常住板本尊の裏書きに第五十一世日英上人の筆によって由来が書き示されている。
 開創の年月日は無く、事実、元禄年中に石之坊の隣の土地を遠信坊日具によって開拓した為、遠信坊の名が付けられたこと。更に享保年中に円入坊日勝によって再興され、その後に土地替えし、幕末の文久二年(一八六二年)薩摩藩主島津斉彬の娘篤姫の帰依により、再々興を図り、 金子百両を拝領をしたことが書かれている。
 遠信坊日具については墓が総本山に現存であるが、詳細は不明である。
 『富士年表』にも文久二年六月十五日、日英上人が遠信坊再々興を図り御本尊を書写されたことが記述されている。
 この坊は、歴代の猊下が猊座を次の御法主様に譲られた後にお住まいになる、いわゆるご隠居所でもあった。
元禄年間の出来事といえば、元禄二年の春、覚真日如(後の日寛上人)御歳二十五才が上総(千葉県)の細草檀林に入檀された。
 同じ年の七月と十一月に北山にある重須本門寺(身延の末寺)より大石寺を寺社奉行に訴える事件があったが、六年後の元禄八年五月に重須の塔中八ヶ坊と黒門・三門等が焼失する顛末になった。
 元禄十三年七月二十一日御影堂修築落慶があった。
 遠信坊は昭和三十八年三月、日達上人のご配慮により登山信徒の宿坊として再興新築された。

『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成19年11月15日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。
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