りょう しょう ぼう
蓮 東 坊
平成21年3月27日撮影
 大石寺開創の年より六年後、聖滅十五年の永仁四年(一二九六年)了性坊日乗によって蓮仙坊(現了性坊)が建立された。
 興尊の弟子本六のひとり日乗師は奥州登米郡(宮城県)新田の出身にして、かつて京洛に上り、漢書国文に長け学府に仕えた故、大学の名を得られた。同郷の縁をもって目師を師と仰いで、長男の民部公を携えて富士に上りともに出家し、なおも大学の敬称を受けられ大学日乗とも称された。富士においては、師の目師には無論のこと重須の興尊にも信任厚く、また鎌倉に常在寺(北山本門寺の末寺)を建てて傍ら民部公を指導して諸道を修め、兼ねて他の興目上人の徒弟をも教導された、興尊より賜った多くの書を拝すれば時に従って対官憲の事業に斡旋し、富士に上下して大いに宗務に努めらた。年長発心出家と篤学信行等の故をもってか、先輩老僧の列に配せられている。宗の表面には著しき功業は残らずとも、不断の奉公は容易ならず。文保二年三月二十八日円寂された。
 いまの了性坊は、草創時代には蓮蔵坊の北にあって蓮仙坊と称したのを、第十七世日精上人の時敬台院殿の復興の時に寺域を拡張して、御堂を最北に上げ、中門たる二天門がその蓮仙坊の前に建つために、蓮蔵坊以下の五ヶ坊を飛び越して最南端に移り、また坊号までも日乗の了性坊という旧名に復したのであり、現在に至るまで盂蘭盆会にて、別してその坊跡を忍ぶ石標の前で回向するなごりゆかしき行事がある。
 長児の民部公もまた民部阿闍梨日盛として、能筆篤学無為に安住して了性坊第二代に就されている。
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