れん じょう ぼう
蓮 東 坊
平成21年3月27日撮影
  本山開創より九年、正安元年(一二九九年)大石寺塔中乗観坊(蓮成坊)が、越後房日弁によって建立された。
 日弁は、俗姓が詳ではないが延応元年(一二三九年)聖寿十八歳の時に甲州に生まれたと伝えられており、もしそうであれば日興上人より七歳年上になる。俗説には熱原神四郎の子と云われるが、同年代であるから誤りである。
 下野房日秀師と共に富士下方市庭寺にある滝泉寺の寺家僧(天台)であったが、日興上人の教化によって改衣した。
 熱原の法難に苦労され、大聖人より下野公日秀とともに滝泉寺申状を幕府に奏じたが、ついに熱原の三烈士が処刑されるに至った。この法難の報せが日興上人より大聖人の許に届き、大聖人は『聖人等御返事』を日興上人・日秀・日弁に送られ更には日秀・日弁に上人号まで与えられた。
 身の危険を案じて大聖人の御慈計にて真間(千葉県)の日頂を介して富木入道の許に転ぜられた。
 大聖人の滅後、身延の墓所輪番に日秀師とともに六月の当番に当たっていた。
  その後上総奥州地方にまで布教の手を延ばして奇跡を残されたと伝えられており、晩年富士に帰られた説もあるが明確なる記録がない。しかし、日興上人の『弟子分帳』に「弘安年中に白蓮に背き了ぬ」とあり、また『家中見聞下』の日弁伝に「越後公日弁は美濃阿闍梨天目と同心の故に永く以て義絶す」と、宗開両祖の御尊顔を拝謁しながら異説を唱える大謗法の輩と通じる顛末、信心を全うする難しさに今昔はない。

 『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成20年8月25日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。
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