ほん きょう ぼう
蓮 東 坊
平成21年3月27日撮影
  元亨元年(一三二一年)総本山開創より三十一年、大聖人滅後四十年、興尊御歳七十六歳、目師御歳六十二歳の年に大石寺塔中治部坊(本境坊)が、日興上人の弟子治部公日延によって建立された。
 『富士日興上人詳伝』に、治部公は青沼治部公日延で小泉久遠寺にある(史料類聚1二○五)嘉元三年の興師本尊の脇書にある「甲斐の国青沼治部房に之を授与す甲斐の国□符寺(□は解読不能の文字)治部日延」とある仁であり、この青沼は現今の甲府市の一隅にあるが、□符寺というはいまだ調査が届かぬ。(略)古図(日主上人)によれば、日延治部阿の坊はいまの本境坊に当たる、日向の日叡縁起によれば日郷門徒が大石東坊を占領した時に日叡は治部日延の亡跡にはいったとある。しかるに日量上人の大石寺明細誌(宗史部1三三二)には「駿州加島の人(略)久しく実相寺に在り(略)師来て僧坊を構へ治部坊と呼ぶ後本境坊に改む」等と記してあるはぜんぜんの誤擬である。通俗伝の実相寺治部房は四十九院住の日位が事実であれば日持党であって、大石寺には来ておらぬのを量師は混淆しておる、弟子分帳にあるごとく「但し聖人御滅後に背き了んぬ」で日弁日法日持等叛逆の仲間である。(詳伝六九七頁)と日亨上人が解説をなされている。

『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成20年8月25日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。
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