かん ぎょう ぼう |
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平成21年3月27日撮影 |
元応元年(一三一九年)、塔中・観行坊が伊勢公日円によって興された。実に大石寺開創から二十九年、先の乗観坊(蓮成坊)建立から二十年にしての塔中開創である。 現在は、蓮蔵坊の他に東西六ヶ坊ずつの表塔中であるが、この元応元年の観行坊創立の段階で、九つ、まだ三ヶ坊が未完成であった。 またこの時すでに日興上人御歳七十四歳、日目上人御歳六十歳、また聖滅三十八年であった。 総本山第四十八世日量上人によって著された『富士大石寺明細誌』文政六年(一八二三年)刊行には 「観行坊 客殿間口六間奥行六間、庫厨六間四間、門一間半一間。開基 興師弟子伊勢公日円上人。俗姓は詳ならず奥州栗原郡の人なり、初め目師に従て出家得道して富士に登り開山師に給仕し坊舎を構えて観行坊と呼ぶ、後命を奉じ奥州栗原郡宮野妙円寺に住持する年有り、茲に於て延元二丁丑十月廿八日示寂」(富要五ー三二九頁) と記されてある。 原文には妙円寺とあるが、実際は妙教寺である。 伊勢公日円の記録はほとんど無く、当時、日興上人が了性坊日乗に、日目上人が民部公日盛に与えたそれぞれ一通づつのお手紙の中に名前が見えるだけである。 正安元年(一二九九年)には目師の兄である新田頼綱の二男で十七歳になる次郎とその弟が得度し、師範日目上人より伯耆公(後の日道上人)、大蔵公(妙教寺第三代となる日運)の交名を賜った。正和三年(一三一四年)日興上人が大聖人の三十三回忌を修した。 『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成20年8月23日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。 |
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