じゃく にち ぼう
蓮 東 坊
平成21年3月27日撮影
  正応三年、(一二九0年)大石寺開創の年に寂日坊が日華師によって創設された。
 寂日房日華は日興上人の本六の弟子のひとりで、建長四年(一二五三年)聖寿三十一歳、興尊七歳の時、甲斐(山梨)二十日村の秋山家に生まれた。
 始めは密教を学し修験道を行じていたが、日興上人の甲州中部の弘教の教化に浴し小笠原・秋山・大井・曽根等親族が入信し、日華師も弟子の日仙・日伝等を率いて改衣し、建治二年(一二七六年)四月八日には興尊の推挙によって大聖人の門下に列なり、二十家阿闍梨の号を賜っている。
 次いで弘安三年五月八日には、大聖人より御本尊を授与された。(京都本能寺に現存) 山梨西部の地である。鰍沢に蓮華寺を建て、地域の折伏に励んだ。その信仰心と功績を認められて、大聖人御遷化の葬儀に列に加り、墓所輪番の十八名の要員となり、十二月の当番になっていた。
 正応二年、興尊の身延離山の節には、住地、甲斐の蓮華寺より富士に移り、大石寺が建立されるや、塔中を興し自らの名を冠して寂日坊を創して大坊守護の任に当った。
 日華師は後に甲斐の蓮華寺を、式部日妙に付し、生家秋山氏の領地替えによって四国に赴き、大法弘通の教線を延ばした。
 更に正中元年(一三二四年)三月には、南条時光の寄進によって妙蓮寺を創し、建武元年(一三三四年)八月十六日、妙蓮寺にて寂した。八十三歳であった。
 甲州大井の肥前房日伝、重須の新六に加えられた式部公日妙は、いずれも寂日房日華の弟子である。
旧坊へ