れん とう ぼう
蓮 東 坊
平成21年3月27日撮影
 大石寺開創の年より四年後の永仁二年(一二九四年)大聖人第十三回忌の年、塔中蓮東坊が三河公日蔵師によって建立された。
現在では清浄な参道と雄大な伽藍を有する本山も、草創の頃は、日興、日目両上人をはじめ、南条時光や名も無き弟子旦那に至る多くの御苦労や浄財の積み重ねによって成り立ったと拝される。
 南条家にとっては熱原法難以後の余燼がくすぶり、まだ財政的にも苦労の癒えぬ時であったが、「日目・日華等の徒および時光・信綱(新田)等の信士一挙して大坊の経営成る」(詳伝二四一)と記述されており、日興上人の縁戚である石川家、武蔵の綱島家や目師有縁の伊豆・奥州の新田家、奥州一の迫の三浦家、日華・日仙の縁ある甲斐の秋山家、小笠原家、さらには日秀有縁の富士下方の信徒が合力し、令法久住と未来広布を願い、法悦をわかちあった。
 三河公日蔵は日目上人の弟子であるが、生没出身不祥であり、限られた記録によれば、元徳二年(一三三0年)正月の日興上人の定められた、『大石寺番帳の事』に十一番三河公日蔵とあり、末尾に「右鎮番の次第を守り懈怠なく勤仕せしむ可きの状件の如し」(聖典六三七)とあり十一月の大坊での勤行と御影堂等の守護の当番に当たっていたことがわかる。その後、興尊の御存命二年余りの間に認められた刑部公へのお手紙に、参川公死去仕候了。(歴全一の一四六)と師匠より先に御奉公を全うされ亡くなっている。師匠の心痛如何ばかりであったであろうか。

『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成19年11月15日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。
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