く じょう ぼう
浄 蓮 坊
平成21年3月27日撮影
 正応三年(一二九○年)聖滅九年、興尊御歳四十五、日目上人御歳三十の時、大石寺が開創され、また塔中久成坊が太夫阿闍梨日尊師によって建立された。
 尊師は、文永二年(一二六五年)奥州陸前登米郡玉野(宮城県)に出生したと伝えられている。
 始めは付近の天台宗の長谷寺に登って出家したが、弘安六年(一二八三年)八月十三日、奥州三の迫六丁目の地頭の邸において、日目上人の教化を受け、義道落居して聴聞の席にて即座に入門を遂げた。時に日目上人は二十四歳の青年僧、尊師は弱冠十九歳であった。
 尊師は、翌弘安七年(一二八四年)五月、日目上人に随って身延に赴き、十月十三日、大聖人第三回忌の砌、日興上人の室に入った。これより師の日目上人と共に、給仕、修行に精励した。 日興上人の身延離山に折、随従して富士に移り、本山守護の塔中久成坊を創した。
 重須の談所において、説法中の日興上人より、「説法中に違念を起こし、落葉を見るべき謂われなし、汝早く座を立つべし」と十二年にわたる勘当を受けたが、日興上人のこの厳しい裁断は、単なる「放心」をいましめられたのではなく、尊師の身についていた天台の余習を拭い去るための御処置であつたと考えられる。
 爾来尊師は発奮して東奔西走して、数多くの道場を創設し、出雲、伊豆、下野、下総、武州、奥州等に教線を拡張した。
 日目上人が元弘三年(一三三三年)の冬、最後の天奏に登られた時には、日郷と共に供をしたが、思わぬ日目上人の御遷化に会い、日目上人の遺志を継いで遺骨を胸に上洛天奏を遂げた。また京都に上行院を開いた。


『立正安国論』正義顕揚七百五十年記念局「総本山総合整備事業」の一環として、新築落慶法要が平成19年11月15日、御法主日如上人猊下大導師のもと奉修された。
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