り きょう ぼう
浄 蓮 坊
平成21年3月27日撮影
 今から七百七年前、身延を離山された日興上人が、日目、日秀、日禅、日華、日弁等の門下を従え、大聖人様より付嘱を受けられた法体の大御本尊を始め、御霊骨、御書等の重宝を奉持して、富士川添いの、祖父方の河合の家を経て上野南条の館に入られた。
 それから一年後、正応三年(一二九〇年)十月十二日、聖滅九年、大石ヶ原に大石寺が建立された。
 時同じくして理境坊が、下野房日秀を開基として創立された。
 本六僧の一人、日秀(下野阿闍梨または下野房・下野公)は『日興上人・日目上人正伝』を元に略伝をひもとくと、日秀は富士下方熱原郷滝泉寺の寺家衆として天台の信仰をして、下野坊に住していたが、日興上人の建治年間における駿河弘教の折に、教化を受け越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円と共にに帰伏し日興上人の弟子となった。
 しかし、滝泉寺に止って近郷の弘通に努めた為、院主代行智の強圧と奸策により、また熱原は最明寺・極楽寺等(時の将軍北条家)の領地であり、熱原法難が惹起した。<BR>
 熱原の法華講衆二十名は、鎌倉に押送され、神四郎等は斬首の刑に処せられたが、日秀・日弁は大聖人様の計らいにより、下総の伊予公日頂のもとに身を寄せた。
 「えち後房(日弁)・しも つけ房(日秀)と申す僧を、いよどの(日頂)につけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へ」(新編御書一四二九)と、又、日秀は大聖人様の葬列にも加わり、身延の墓処輪番にあっては日弁と共に六月の当番にあたっていた。
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