御法主日如上人御指南 
御法主上人猊下お言葉
唱題行
(平成31年1月3日 於総本山客殿)

 宗旨建立七百六十七年「勇躍前進の年」あけましておめでとうございます。
 皆様には、すがすがしく「勇躍前進の年」の新春を迎え、決意も新たに、いよいよの御精進をお誓いのことと存じます。
 既に皆様も御承知の通り、今、宗門は来たるべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向けて、僧俗一致・異体同心の団結をもって、力強く前進をしております。
 私どもが御宝前に固く誓った法華講員八十万人体勢の構築は、全国すべての支部が「一心欲見仏 不自惜身命」の御聖訓を奉戴し、全力を憤注して、なんとしてでも達成しなければなりません。
 そのためには、私ども一人ひとりが断固たる決意をもって、真剣に唱題に励み、その功徳と歓葺をもって敢然として不幸の根源である謗法を破折し、折伏を行じていくことが肝要であります。
 さて、大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
「此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが候はゞ、無間大城疑ひなかるべし。譬へば海上を船にのるに、船をろそかにあらざれども、あか入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべきなり。」(御書九〇六n)
と仰せであります。
 御文中「少しも謗法不信のとが候はゞ、無間大城疑ひなかるべし」との仰せを、私達はよくよく拝さなければなりません。
 そもそも、謗法を厳しく誡めることは本宗の宗是であります。されば『秋元御書』には、
「常に仏禁めて言はく、何なる持戒智慧高く御坐して、一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵を見て、責め罵り国主にも申さず、人を恐れて黙止するならば、必ず無間大城に堕つべし。譬へば我は謀叛を発こさねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し。南岳大師の云はく「法華経の讐を見て呵責せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん」と。見て申さぬ大智者は、無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出づるべからず。」(同一四五三n)
と仰せられております。
 解りやすく申し上げますと「仏は常に誡めて仰せられるには、いかに堅固に仏教の戒律を持ち、また智慧が勝れていて、一切経ならびに法華経に詳しく通じている人であっても、もし法華経を誹謗する者を見ていながら責めることもせず、また国主にも申し上げず、人を恐れて黙っているならば、その人は必ず無間地獄に堕ちるであろうと説かれている。それはあたかも、自分では謀反を起こさなくとも、謀反を知りながら国主にもこれを知らせることをしなかったならば、その与同罪は謀反人と同じ罪となるようなものである。南岳大師は『法華経の敵を見て、呵責しない者は謗法の者である。無間地獄に堕ちる』と言われている。されば謗法の者を見ても何も言わない者は、どんなに大智者であっても無間地獄に堕ちて、地獄のあらん限り出ることはできない」と厳しく仰せられているのであります。
 すなわち、たとえ信心をしていても、自行ばかりの信心にして、謗法の者を見ても、ただ黙っているばかりで折伏もしない者は、どんな大智者であったとしても謗法を犯している者と同じであると厳しく御教示あそばされているのであります。
 されば『南条兵衛七郎殿御書』には、
「信心ふかき者も法華経のかたきをば責めず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(同 三二二n)
と仰せられているのであります。
 私どもはこの御金言を拝し、私どもの信心にとっていかに折伏が大事であるかを肝に銘じて、
「力あらは一文一句なりともかたらせ給ふべし」(同 六六八n)
との御金言を胸に、一意専心、折伏に励んでいくことが一生成仏のためには最も肝要であります。
 『聖愚問答抄』には、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同 四〇三n)
と仰せであります。
 皆様には、いよいよ宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節まであと二年余に迫った本年、これからの戦いが誓願達成の成否を決める大事な戦いになることを認識し、一人ひとりがこの御金言を拝し、また講中が異体同心して一斉に折伏に立ち上がり、全支部が必ず折伏誓願を達成して、晴れて御聖誕八百年の慶事を迎えられますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。