御法主日如上人御指南 
 二月度広布唱題会の砌
 本日は、二月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 さて、御承知の通り、今月は宗祖日蓮大聖人御誕生の月であります。
 大聖人様は、貞応元(一二二二)年二月十六日、法華経に予証せられた通り、外用上行菩薩、内証久遠元初自受用身の御本仏として末法に御出現あそばされましたが、その目的は、文底下種の妙法蓮華経をもって末法本末有善の衆生をして、ことごとく仏道に入らしめ、即身成仏せしめるためであります。
 されば『観心本尊抄』には、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」(御書六六二n)
と仰せられているのであります。
 この御本仏日蓮大聖人の一切衆生救済の願業を正しく今に承継して、世のため、人のため、一天四海本因妙広宣流布達成を目指して、一意専心、破邪顕正の折伏を行じていくところに、我ら本宗僧俗の最も大事な使命が存しているのであります。
 されば『聖愚問答抄』には、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」
(同四〇三n)
と仰せられ、邪義邪宗の害毒によって苦悩に喘ぐ、末法本未有善の衆生を救済するための具体的実践方途こそ折伏であることを明かされ、弟子檀那一同に対し、一向に折伏を行じていくべきことを御教示あそばされているのであります。
 さらに『曽谷殿御返事』には、
「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遺し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遺し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(同一〇三九n)
と仰せられ、謗法の者を見て、置いて折伏もしない者は「師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」とまで、厳しく御教示あそばされているのであります。
 つまり、世の中の不幸と苦悩と混乱の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあり、この謗法をそのままにして破折もせず、放置しておくことは、世間をはじめ我が身にとっても、知らず知らずのうちに与同罪を受けて、謗法の害毒に侵されることとなるため、厳しく謗法を責めよと仰せられているのであります。
 さらにまた、ただいまの御文に次いで、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(同一〇四〇n)
と仰せられておりますが、厳しく言えば、たとえ信心をしていたとしても、もし謗法を
放置したまま破折もしない、折伏もしないようであれば、成仏は思いもよらずと訓告あそばされているのであります。
 よって今、平成二十七年の誓願達成へ向けて宗門が一丸となって前進をしている時、一人ひとりがこの御金言を心肝に染め、誓願達成の固い決意と勇気と実践行動をもって、いかなる困難や障魔が競い起きようが、敢然として折伏を行じ、総力を結集して、なんとしてでも、来たるべき平成二十七年の誓願を達成しなければなりません。
 『衆生身心御書』には、
「つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれリ。小事つもりて大事となる」(同一二一六n)
と仰せであります。
 たしかに、我々一人ひとりの力は小さくとも、広布へ向かって心を合わせ、一致団結していけば、やがて大海ともなり、須弥山ともなり、計り知れない大きな力となり、広布へ向かって大きく前進することができるのであります。
 まさしく、今、求められているのは、講中の一人ひとりが、誓願達成へ向けて共通の目的と強い意識を持ち、異体同心して破邪顕正の折伏を断固として行じていくことであります。
 大聖人は『祈祷抄』に、
「大地はさゝばはづるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」
(同六三〇n)
と仰せであります。
 本門戒壇の大御本尊の広大無辺なる功徳を信じ奉り、平成二十七年の誓願達成を目指して日夜朝暮に折伏に励むとき、我らの願いは必ず達成できることを確信し、いよいよ御精進されることを心から願い、本日の挨拶といたします。