御法主日如上人御指南 
 唱題行(一月二日)の砌
  宗旨建立七百六十二年「折伏貫徹の年」あけましておめでとうございます。
 全国の宗内僧俗御一同には、すがすがしく「折伏貫徹の年」を迎え、決意も新たに、いよいよの精進・御奉公をお誓いのことと存じます。
 昨年、宗門におきましては、御影堂大改修工事が七年の歳月を掛けてめでたく完成し、落慶大法要ならびに記念法要を、全国から多くの方々が御登山され、厳粛かつ盛大に奉修することができました。
 これもひとえに、宗内僧俗御一同からの赤城の御供養によるものであり、ここに謹んで厚く御礼申し上げます。まことに有り難うございました。
 さて、本年は「折伏貫徹の年」であります。
 貫徹とは、物事をやり通すこと、貫き通すことであります。
 すなわち、本年は来たるべき明年の第二祖日興上人御生誕七百七十年・法華講員五〇%増の達成へ向けて、成否を決定する極めて大事な年であります。
 よって本年は、全支部が僧俗一致・異体同心して総力を結集して、唱題に励むとともに、進取果敢に折伏に次ぐ折伏をもって、なんとしてでも誓願を達成しなければなりません。
 なかんずく、特に留意すべきことは、日興上人の御生誕は三月八日であります。したがって、法華講員五〇%増の誓願は、平成二十七年の三月八日までに達成しなければならないということを銘記しておかなければなりません。
 大聖人は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まリがたし。此の時は読涌・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書四〇三n)
と仰せであります。
 この御文は、皆様もよく御承知のことと存じますが、要するに、今、末法濁悪の世において、一切衆生救済の最善の方途とは何かと、言えば、破邪顕正の折伏以外にはないということをお示しあそばされているのであります。
 されば『法華初心成仏抄』には、
「元より末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざリき。或は罵られ毀られ、或は打たれ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しもこりもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり」
(同一三一五n)
と仰せであります。
 御承知の通り、不軽菩薩は威音王仏の滅後、像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして礼拝讃歎して、
「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」(法華経五〇〇n)
「私はあなた方を敬い、軽んじません。あなた方は必ず仏と成るべきであるからで
あります」
と唱えて、会う人ごとに対して専ら礼拝を行じたのであります。
 しかし、増上慢の四衆、比丘・比丘尼・優姿塞・優姿夷らは、不軽菩薩に対して瞋恚の心を生じて、悪口罵詈したのであります。
 だが、不軽菩薩は悪口罵詈されながらも、常に「汝、当に作仏すべし」と言って、礼拝行をやめなかったのであります。
 そのため、増上慢の四衆は不軽菩薩に対して、杖木瓦石をもって打擲し、迫害を加えたのであります。しかし、不軽菩薩はそれでもなお声高く、
「我敢えて汝等を軽しめず。汝等皆当に作仏すべし」(同五〇一n)
と言って、なおも礼拝行を続けたのであります。
 ひたすら礼拝行を続けた不軽菩薩は、その功徳によって、命終わらんとする時に至って、威音王仏の説かれた法華経を虚空のうちに聞いて、ことごとく受持して六根清浄を得、六根清浄を得巳ってさらに寿命を延ばすこと二百万億那由他歳、その間、広く人々
のために法華経を説いたのであります。
 その結果、かつて不軽菩薩を軽蔑し、悪口罵詈・杖木瓦石をもって迫害した増上慢の四衆、すなわち不軽菩薩を軽しめた者達も、一度は地獄に堕ちましたが、法華経を聞いた縁によって再び不軽菩薩の教化を受けることができ、救われたのであります。
 今、我々の折伏も、不軽菩薩の行化がそうであったように「機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて」折伏を行じていけば、当然の如く、様々な非難・中傷・悪口・罵詈・妨害・迫害等を受けることは必定であります。
 しかし『椎地四郎殿御書』に、
「大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし」(御書一五五五n)
と仰せのように、また『四条金吾殿御返事』に、
「法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か」(同一二九二n)
と仰せのように、いかなる大難が到来しようとも、強盛なる信心をもって泰然としてこれを受け止め、『開目抄』に、
「強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」(同五七三n)
と仰せのように、大難の来たるのは、むしろ過去遠々劫からの罪障を消滅する絶好の機会と捉え、なお一層の信心に励むとき、たび重なる大難も消え失せ、大難に倍する、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります。
 故に『御義口伝』には、
「末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」(同一七六二n)
と仰せられているのであります。
 どうぞ皆様方には、この御金言を胸に、いかなるわずらわしきことがあろうとも、難があろうとも、大御本尊様の広大無辺なる功徳を絶対的に確信し、一人ひとりが、本年「折伏貫徹の年」が平成二十七年の法華講員五〇%増を達成する上で極めて大事な年であることを心肝に染め、いよいよ自行化他の信心に励まれますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。