大 白 法
  

 
         第二祖日興上人御生誕770年記念特別展示

             日興上人の御生涯と富士の正義



展示資料紹介@

 本年一月十日より、宝物殿において第二祖日興上人御生誕七百七十年記念 特別展「日興上人の御生涯と富士の正義」が開催されています。既に大勢の登山者が御開扉の前後に拝観して、反響を呼んでいます。
 この特別展は、日興上人の尊い御生涯を通して、その御高徳と富士の地において日蓮大聖人の正義を弘通された御功績について、絵や図解を用いて判りやすく展示されています。また、総本山大石寺に蔵される日興上人の『法華取要抄』写本や『宗祖御筆集』、さらには全国の末寺に蔵される日興上人御影画像、日興上人直筆の書状頬など貴重な宝物も展示されています。
 今号より、特別展の貴重な展示資料の中から、その一部を紹介していきます。(毎月一日号に掲載する予定です)

日興上人所持半装束数珠(総本山大石寺蔵)
 第二祖日興上人が所持されていた数珠。水晶珠と黒柿珠半々で作られている。
 装束数珠とは、水晶珠で装飾された数珠のこと。水晶珠だけで仕立てられたものを本装束、水晶珠と他の材質の珠を組み合わせて仕立てられたものを半装束数珠という。本装束数珠は、盛儀の法会の際に使用される。
 日興上人御影像と共に、随身されていた数珠を眼前に拝する時、日興上人の在りし日の面影が偲ばれる。
 総本山大石寺にはこの数珠のほか、「日興上人所持 七宝数珠」が蔵されており、当展開催期間中に展示される予定である。
 長さ約五〇p、鎌倉時代。
   ◇   ◇
『法華本門取要抄
 (法華取要抄)』写本(総本山大石寺蔵)
 日蓮大聖人の『法華取要抄』を日興上人が書写されたもの。日興上人は大聖人の文底下種仏法の深義により、題名の「法華」を「法華本門」とされている。このことについて、日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、
「彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり」(御書一八六八)
「御筆抄に御書毎に於て法華本門の四字を加ふ、故に御書に之無しと雖も日興今義に従って之を置く、先例無書に非ざるか」(同一八七一)
と御教示である。
 縦二九・五p、全長四五五・九p、鎌倉時代後期。


展示資料紹介A

『立正安国論』写本(総本山大石寺蔵)

 嘉元二(一三〇四)年九月、日蓮大聖人の『立正安国論』を日興上人が書写されたもの。
 日蓮大聖人の御生涯は、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われる。御入滅を目前にしてもなお、大聖人は武州池上の地で『立正安国論』を講義なされた。
 『立正安国諭』は、文応元(一二六〇)年七月十六日、大聖人が御年三十九歳の時の述作で、鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に提出された。当書はその名の通り、正法を立てて国を安ずる破邪顕正の書である。
 大聖人は、当時頻発した災害、とりわけ正嘉元(一二五七)年八月二十三日夜の大地震と、それに続く大風、大飢饉、大疫病によってまるで地獄絵図のような光景を目の当たりにされ、一切経を閲覧し、災難興起の原因はすべて邪宗邪義にあることを突き止められた。そして、治国の秘術は唯一、謗法を捨てて正法に帰依することであると、『立正安国論』を著されたのである。
 この大聖人の一切衆生救済の大慈大悲の諌言は、幕府に容れられず、かえって迫害の嵐が大聖人を襲った。念仏者と幕府の要人の結託により、『立正安国論』提出から、四十二日目には鎌倉松葉ケ谷の草庵の焼き打ち、その後の伊豆配流、さらには竜の口・佐渡の両法難等、身命に及ぶ大難が次々と競い起こった。
 これらの大難に遭い、法華経を身読された大聖人は末法の御本仏としての御自覚に立たれ、上行日蓮の迹を払い、久遠元初の御本仏としての本地を開顕されたのである。
 この大聖人の忍難弘通の御振る舞いと、『立正安国論』の国主諫暁の精神は、第二祖日興上人、そして第三祖日目上人へと代々承け継がれ、今日まで日蓮正宗に脈々と伝わっているのである。
 縦二九・五p、全長九〇九p。
   ◇   ◇
『法華本門四信五品抄
(四信五品抄)』写本(総本山大石寺蔵)
 日蓮大聖人の『四信五品抄』を日興上人が書写されたもの。
 『四信五品抄』は、建治三(一二七七)年四月十日、大聖人御年五十六歳の時、身延において述作され、下総国の富木常忍に与えられたもの。大聖人の御書十大部の一つに数えられる。
 日興上人は大聖人の文底下種仏法の深義により、題名に「法華本門」の四字を追加されている。
 縦二九・一p、全長二三六p、鎌倉時代後期。


展示資料紹介B

日興上人筆
『新田阿闍梨御房御返事』(総本山大石寺蔵)
 この書状は、正月十二日(執筆年次未詳)、第二祖日興上人が第三祖日目上人へ与えられたもの。日興上人と日目上人の御手紙を集めて巻軸とした『日興上人・日目上人御筆十通』(総本山大石寺蔵)
 本文に、「正月十三日 御霊供料 白米三升 芋五升 かちめ五把 うちたうふ一はち 納豆 御酒一具 かふら すりたうふ いつれも いつれも ありかたく候恐々謹言 正月十二日 白蓮(花押) 新田阿闍梨御房御返事」
とある通り、新田阿闍梨(日目上人)がその年の宗祖日蓮大聖人の初御講(毎月十三日の命日に御講を奉修)に当たって、御霊供料や白米・芋など多くの品々を御供養したことに対し、日興上人が御礼を述べられている。
 日興上人は『日興跡条々事』に、
 「日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢へて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で 甲州身延山 御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、秦聞の功他に異なるに依って此くの如く書き置く所なり」(御書一八八三n)
と、日目上人が入門以来、五十八年にわたって師匠の日興上人に背くことなく御仕えし、また大師匠である日蓮大聖人に七年間、常随給仕されたこと、さらには五十年間の天奏(四十二度に及ぶといわれる国主諌暁)の偉業を記されている。
 縦一三・六p、全長五一・八p、鎌倉時代後期。


展示資料紹介C

 日興上人が日蓮大聖人の御消息(御手紙)を分類し、筆写されたもので、総本山大石寺に二巻が伝わっている。
 一巻には南条時光殿と母尼に与えられた消息文十五通(四十紙)が収録されており、もう一巻には妙心尼(窪尼)等に与えられた消息文十六通(三十二紙)が収録されている。
 この中には、日蓮大聖人の御真蹟が伝わっていない御書も含まれており、極めて貴重な写本である。
 日興上人は、大聖人が著された多くの法門書・消息文等を御本仏の金言と拝し、「御書」と称して尊重し、その散逸を防ぐため、収集と保存、筆写に心を尽くされた。これにより大聖人の教えが正しく現在に伝えられている。
 日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、
「彼の五人一同の義に云はく、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少々之有りと雖も、或は在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書きて愚癡の者を引摂し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆を或はすきかえしに成し、或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。」(御書一八七〇)
と仰せられている。
 他の五老僧が大聖人の仮名書きの御書を残すことは大聖人の恥辱であると言って、漉き返したり、焼いてしまったことに対し、日興上人はそれを大聖人の跡を破滅する行為であると嘆かれている。そして、御書を後世のためにことごとく書き残し、規範とすることを訓誡されている。


展示資料紹介D

『富士一跡門徒存知事』写本(総本山大石寺蔵)

 日興上人が、延慶二(一三〇九)年に著された書。本書は、永正十八(一五二一)年の筆写本。
 冒頭に「日興の門葉に於ては、此の旨を守って一同に興行せしむべきの状仍って之を録す」(御書一八六七n)とあるように、不相伝の輩である五老僧と、日興上人との間における五一の相違(五一の相対)を示され、その法門解釈の違いを明確にし、後世のための遺誡とされたものである。
 内容は、五老僧の邪義を破して富士門下の正義を顕わすと共に、波木井日円の四箇の謗法、十大部御書の選定とその所在、御本尊のこと、本門寺を建てるべき在所は富士山であること、秦聞状のことなどが記されている。
 なお、五一の相対については、『五人所破抄』(同一八七五n)にも記されている。
 縦二五p、横四〇八・四cm
   ◇   ◇

『南条兵衛七郎殿御書(第二紙)』、『唱法華題目抄』写本(妙光寺信徒・由井一男氏蔵)

 大聖人の『南条兵衛七郎殿御書』の行間に、日興上人が『唱法華題目抄』の一部を書写されている。鎌倉時代。
 縦二七・五cm、横三五・二cm


展示資料紹介E

『一代五時鶏図』写本(総本山大石寺蔵)
 日蓮大聖人が建治元(一二七五)年、御年五十四歳の時に著された『一代五時鶏図』(御書九二八)を、日興上人が書写されたもの。
 『一代五時鶏図』『一代五時図』は、大聖人が、釈尊一代の説教を天台の五時の分類に則って図示したもの。これは弟子に仏教観を講ずるために著されたものとされている。
 縦三一・九p、横四三九・六p、鎌倉時代。


『卿公御返事』
(総本山大石寺蔵)
 『卿公御返事』は、総本山大石寺所蔵の『御開山御消息』(二十九通三十二紙)に収められている消息(書状)である。写真はその第三・四紙部分。
 日興上人が、卿公(日目上人)を通して奥州新田家に対する信心指導をされたお手紙。
 この頃、日目上人の実家新田家では故妙法尼の法事を行うに当たって、法華経によるか、念仏によるかで紛糾していた。妙法尼の法事は、本家を継ぐ孫の頼綱が願主であったが、当時の新田家一門の中には念仏宗の親戚も多く、中でも故尼の子息である念仏宗の沙弥道意等が中心となって、法事は念仏で行うべきであり、念仏を否定するような不孝の者には領地を受け継ぐ資格はないと主張したのである。
 卿公の母蓮阿尼は、このような一家の有り様に心を痛め、弟である南条時光殿と共に書状を認め、卿公を通じて日興上人の御指導を仰いだのである。
 日興上人は、この消息の中で「法華経によって真の追善供養を行うことは、一族の人々の動執生疑(念仏を信ずる心を揺り動かして疑念を起こさせ、正法に導くこと)ともなるので喜ばしいことである(趣意)」と仰せられている。
 なお、この消息は宛名を「卿公」とされていることや、日興上人の花押の形態、さらには卿公に対して「返状の案文が出来上がったならばこちらに持って来なさい、見てあげましょう(趣意)」と仰せられていることなどから、卿公がまだ若い時、すなわち大聖人の減後間もない頃の御状であると思われる。
 縦三〇・二p、横八二・七p、鎌倉
時代後期。

『卿公御返事』後半部分の書き下し

 又ねんふつに寄合給ハすハ をやの跡
 いかゝとおほされたりけに候 法花経にて
 をやの孝養して候子か不孝になり
 て をやのあとを領知候ましき事
 の候へきやらんと 一言あるへくや候らん
 法門のちかひめハ 御存知の上ハにて候
 たゝいかにも大むけんちこくと候て
 聖人の御本意を叶ハせ給へしと覚候
 この御仏事の次に法花経動執生疑
 候ハんする事悦入候 御返状の案文ハ
 給候てみまいらせ候へく候 恐々謹言
 十一月十三日
         日興 花押
 謹上 卿公御房御返事


展示資料紹介F

『西御坊御返事』(総本山大石寺蔵)
 第二祖日興上人は、正応三(一二九〇)年十月十二日に大石寺を創建され、その翌日、第三祖日目上人に譲座御本尊を授与して、法を内付嘱された。その後、日興上人は永仁六(一二九八)年二月十五日、重須(富士宮市北山)に御影堂を建立して移られ、談所を開設された。
 この書状は、永仁六年以降に著されたもので、垂須談所に住まわれた日興上人から、西御坊(大石寺大坊)にお住まいの日目上人へ与えられた書状である。本状には、日目上人からの御供養を「聖人御影(日蓮大聖人の御影)の御宝前」にお供えしたことが記されている。
 縦一四・四〇cm(折紙二七・八p)、横三六・六五p、鎌倉時代後期。
   ◇    ◇
『白米二斗御返事』
 (宮城県栗原市・妙教寺蔵)
 追善回向のための御供養品を「法花聖人(日蓮大聖人の御影)の御宝前」にお供えしたことを記された書状。宮城県栗原市の妙教寺に蔵されている。
 これらの書状から、第二祖日興上人が宗祖日蓮大聖人を末法の御本仏と拝し、御本尊と共に御安置された大聖人の御影像の御前に、門下僧俗からの御供養を供えられていたことが判る。
縦一三・五九p。一三p、横三一・六p、鎌倉時代後期。


展示資料紹介G

『白米一駄御返事』(総本山大石寺蔵)
 この書状は、某尼御前の十三回忌に当たり、日興上人のもとに届けられた御供養の品に対する礼状である。「三月七日」の日付のみで、年号が記されていないため、述作年を特定することはできない。
 文献に残る日興上人への御供養をみると、白米などの食品類をはじめ、衣食住に欠かせない品々が多い。このことからも、当時の弟子・信徒の外護の姿がうかがえる。写真は第三・四紙部分。
 (三紙)縦一五・八p、横三六p、(四紙)縦一五・二p、横四一・三p、鎌倉時代後期。

『日興上人御遷化次第写本(富士一跡門徒存知事)』
    (重須日誉写本収録・総本山大石寺蔵)
 第二祖日興上人の御葬送の儀は、第三祖日目上人の大導師により、二月八(七)日酉の時(夕方六時)に御入棺、戌の時(午後八時)に厳修された。この日興上人の御葬送の次第と御遣物配分の記録は、宰相阿闍梨日郷が『日興上人御遷化次第』として書き留めている。
 本書は、重須日誉が永正十八(一五二一)年六月四日、『富士一跡門徒存知事』を書写した際、日郷筆記の『日興上人御遷化次第』も合わせて書写したもの。写真はその第十一紙から十三紙部分。
 (十一紙)縦二五・一p、横二九・二p、(十二紙)縦二五・一p、横三〇・三p、(十三紙)縦二五・一p、横三〇・一cm、鎌倉時代後期。
 同年、退檀して総本山大石寺に登り、久成坊の住職となられ、在坊五年目の文化三(一八〇六)年夏、江戸下谷(台東区)の常在寺に移り、第十四代の住職となられました。
 文化五年五月八日、総本山第四十五世日礼上人が御遷化されたことから、この年の秋、第二十八代の学頭となり、大石寺蓮蔵坊(学寮)に入られました。
 そして、同年九月二十四日、方丈(大坊)に入られ、四十三歳の時、総本山第四十四世日宣上人より唯授一人の御付嘱を受けられ、総本山第四十六世の御法主となられました。
 御登座後は、総本山の諸堂宇を修理され、在位六年の文化十一年四月十一日、四十九歳の時、総本山第四十七世日珠上人に血脈相承され、塔中石之坊に閑居されました。
 しかし、翌文化十二年八月十六日、日珠上人が在職わずかにして体調を崩され寿命坊へ移られたため、日珠上人の請いにより再住されました。
 そして、文化十四年一月二十七日、五十二歳をもって御遷化されました。

御著述
 日調上人の御著述としては、『信心得意』、『生御影之事』が総本山に蔵されており、この他、東京都品川区の妙光寺には文化九(一八一二)年一月の加州金沢信行中宛の『御示』(消息)、また金沢市の妙喜寺には文化三年五月十三日・同年七月十七日・同月十八日の『説法』(写本)、京都の住本寺には『日調御上人師御扣記二月』(興師会講本)、『日調御上人師御扣記』、さらに静岡県富士宮市狩宿の井出家には慈存智丈師(総本山第五十世日誠上人)宛の『消息』三通がそれぞれ蔵されています。