大 白 法令和4年6月16日付
  
          総本山第57世 日正上人の御事蹟
 
 総本山第五十七世日正上人の第百回遠忌法要が八月十七日・十八日、総本山において奉修されるに当たり、日正上人の御事蹟を掲載します。
 日蓮正宗の宗名公称をはじめ、三門の改修など、多岐にわたる御事蹟を残された日正上人の御生涯を紹介します。

御出生・出家得度

 総本山第五十七世日正上人は、文久二年十二月十八日(一八六三年二月八日)、陸奥国仙台藩(現在の宮城県仙台市)の武士・阿部勇七氏の四男として出生し、俗名を「鼎介」と称されました。
 日正上人御自身が書かれた履歴書によれば、明治六(一八七三)年より地元仙台の学校において漢学や英学を修め、同十一年からは東京神田区(現在の千代田区内)の訓蒙学校に移り、二年間通われています。その後、同十三年には再び仙台に戻り、同十六年九月まで漢学を学ばれたことが記されています。
 そして、明治十六年十月十三日、二十二歳の時、仙台の仏眼寺住職であった大石慈含御尊師(後の第五十六世日應上人)のもとで出家得度されました。日正上人は道号を「慈照」と号し、後に阿闍梨号を「宮城阿」、院号を「事証院」と称されています。
 出家後は、御師範日應上人や鈴木慈謙御尊師(日應上人の弟弟子。後の第六十二世日恭上人)に就いて宗乗(本宗の教学)・余乗(天台等の教学)を修め、教学研鑚に励まれました。

総本山在勤・耶蘇教との問答

 日正上人が出家得度された約一カ月後の明治十六年十一月には総本山で、全国の僧俗代表による護法会議が開かれました。この会議の議長に抜擢された日應上人は、これを機に総本山内に留まられたようで、翌十七年には寂日坊住職に任ぜられ、日正上人もお供して、同年三月十七日から総本山在勤となられました。日正上人はその後、明治二十三年の大阪御赴任(後述)まで、日應上人のお側で御奉公なされたと思われます。
 明治十八年三月、神奈川県小田原において大石寺派と耶蘇教(キリスト教)徒の間で論争があり、正邪を決するため、翌月十八日・十九日に公開演説討論会が行われました。これには、日應上人と共に日正上人も登壇され、因果の道理に基づく日蓮大聖人の正法を説き、キリスト教牧師を論破して、本宗の正義を広く世間に知らしめました。
 その後、明治二十年三月五日、日正上人は教師に補任されています。

巡回教師拝命・富什問答

 明治二十二年八月、日應上人を会長とする大石寺布教会が発足すると、日正上人は同会の創立委員・本部幹事、さらに地方巡教を担う巡回教師に任命され、以後、同会の運営や首都東京をはじめ各地において演説会等を開催され、折伏弘通のために東奔西走されました。
 そして、明治二十三年二月、日正上人は大阪蓮華寺の事務取扱を拝命して同地に赴かれ、程なくして同寺十三代住職に任じられました。
 次いで同二十八年四月、岐阜県武儀郡の上有知教会所(現在の美濃市・本玄寺。大正二年に徳島・本玄寺の寺跡を移して寺号公称)に赴任され、同地において十二年間にわたり、寺運興隆と地域広布のため尽力されました。
 なお、この間、同三十三年の第一回宗会議員選挙に当選されたほか、宗会副議長・評議員を歴任されています。
 明治三十四年三月、当時、宗名を日蓮宗富士派と称していた大石寺と日什門流(顕本法華宗)との間に、通称「富什問答」と言われる公開法論が行われました。
 かねて大石寺側の全権委員に任じられていた日正上人は、什門・本多日生の主張する経巻相承の邪義を破折し、本宗の血脈相伝によってこそ御書の正義が顕わされることを説かれました。この日正上人の論説には聴衆から大拍手と歓声が沸き起こり、富士派の大勝利となりました。

御登座・「日蓮正宗」公称

 明治四十年九月、日正上人は総本山塔中・寂日坊住職を経て、十二月には能化に昇進されると共に、宗務院総務(現在の日蓮正宗総監職)に就任されました。
 翌年八月には、絵本山四十代大学頭に就任され、併せて富士学林総長・蓮蔵坊住職を拝命されています。
 そして、日正上人四十七歳の時、

明治四十一年十月二十九日に管長となられ、十一月十日には日應上人よ。唯授一人の血脈を相承され、総本山第五十七世の御法主上人となられました。翌四十二年四月四日・五日には、総本山において御代替法要が修されています。
 日正上人の御当職中の御事蹟は、「日蓮正宗の宗名公称をはじめ、総本山三門の修築、大書院の増築、複数回に及ぶ地方御巡教、教学護法財団の設立など、多岐にわたります。
 このうち宗名公称について挙げれば、大石寺は、明治三十三年に日應上人等の尽力により興門派八山からの分離独立を果たして「日蓮宗富士派」と称していました。しかし、名実共に一宗としての体裁を整えるために、宗名改称が検討されるところとなりました。
 日正上人は当時の本宗総講頭・荒木勇氏に政府との折衝を仰せつけられ、荒木氏は内務省の担当局へ度々足を運ばれました。
 政府から「日蓮正宗」公称の認可が下りたのは、分離独立から十二年後の明治四十五年六月七日のことでした。その後、同年七月に明治天皇が崩御されて元号が「大正」と改まります。
 そして、大正元(一九一二)年十月二十一日、御当職の日正上人大導師のもと、御隠尊日布上人・日應上人の御臨席を仰ぎ、日蓮正宗公称奉告法要が厳粛かつ盛大に奉修されました。
 法要の席上、土屋慈観御尊師(後の第五十八世日柱上人)は、「宗名はこれ日蓮正宗、嗣法導師はこれ日正上人、年号はこれ大正元年な。。三正契合して一貫の妙理それ顕然たり。仏意の感応誠に以て明らかなり」(法道院百年史一六七n)
と、この盛儀の意義について祝辞を述べられました。

御遷化

 御登座後の日正上人のもとでは、第六十五世日淳上人・第六十六世日達上人をはじめ、多くの方が御弟子となられています。
 そうした御弟子方の話によれば、日正上人は実に厳格な方であられ、小柄な御体躯ながらもどこか人を畏敬せしめる雰囲気を御持ちであったといいます。僧侶や信徒が御目通りの際に日正上人の御前に行くと、申し上げようとしていた言葉の半分も出なかった、との逸話も伝えられています。
 また常々、「火の用心を怠らぬように」と仰せられ、御自ら毎夜に三度も大坊中を回られていたといいます。
 そうした中、日正上人は大正九年頃から体調を崩されるようになり、同十二年の夏の初めには、興津(現在の静岡市清水区)において療養されるようになりました。
 八月に入り、先に大学頚に任じられていた日柱上人を呼ばれ、同月十二日、日柱上人に法を付されました。
 そして、同月十八日の朝、日正上人は安祥として御遷化あそばされました。(享年六十三歳)

大石寺独立への軌跡
 日布上人が御当職であられた明治時代は、政府の方針により、仏教各派の統合が強いられるという激動の時代でした。
 明治五(一八七二)年六月、政府は一宗一管長制を定め、十月には天台宗・真言宗・浄土宗・日蓮宗等の各宗が公認されました。すなわち、日蓮各派は日蓮宗という名のもとに、一宗として統合されることになったのです。
 時の御法主であられた総本山第五十四世日胤上人は、事態を鑑みられ、同年六月一日、教部省に対し『大石寺一本寺独立願』を提出します。また、日胤上人は同様の願書を、翌年一月と七月にも立て続けに提出され、大石寺の独立を嘆願されました。
 その後、各派からの不満が相次いだためか、同七年三月には一宗一管長制は廃止され、日蓮宗は一致派・勝劣派のそれぞれに管長を置くことが認可されました。
 さらに同九年二月に、勝劣派は、興門派・妙満寺派・八品派・本成寺派・本隆寺派の五派に分かれ、それぞれに管長が置かれました。このうち大石寺は、北山本門寺・京都要法寺・保田妙本寺等と共に興門派(日興上人の門流)として括られ、興門八山の一つに位置づけられることとなりました。
 同十五年七月、興門派管長の派内巡回説教の令達が出されると、日布上人はすぐさまこれに抗議する形で、大石寺の分離独立を内務省に願い出られました。
 日布上人は同十七年にも、大石寺を興門派総本寺とするための請願、また管長撰定のための意見書を提出されています。またこの頃同時に、大石慈含師(総本山第五十六世日応上人)・富士本智境師らを代理として、大石寺の分離独立のため、たびたび働きかけをなされました。
 同二十二年、大石寺では第五十六世の御法主として日応上人が御登座されました。
 日応上人は同二十九年六月十七日、内務大臣宛の『大石寺分離独立請願書』を興門派管長・芦名日善(北山本門寺)に提出されました。これに対し日善は、興門八山内の多数派の意見としてこれを容認しますが、結局政府がこれを認可することはありませんでした。
 同三十二年二月十五日、興門派は宗名を本門宗と改めます。
 同じ年の五月十一日、日応上人代理・佐藤慈一師によって『分離独立追願書』が提出されると、内務省はこれに取り合い、本門宗管長・大井日住(伊豆実成寺・現在は日蓮宗)に対し、宗旨・血脈・寺格などについての答申を求めました。
 そこで日住は各山の回答を取りまとめて答申したところ、内務省よりさらに、「分離後の宗制寺法」・「興学布教」・「合同と分離の利害得失」の三項目について答申するならば、分離独立の認可を考慮する旨の返答がありました。
 これを受けて日応上人は翌三十三年一月、土屋慈観師(総本山第五十八世日柱上人)・堀慈琳師(総本山第五十九世日亨上人)らを召集し、新宗制寺法制定のための評議会を設けられます。
 準備の整った八月二十一日、日応上人は独立の『認可願』と共に『日蓮宗富士派宗制寺法』の許可を内務大臣宛に願い出られました。
 一カ月後の明治三十三年九月十八日、ついに内務省より認可が下り、ここに大石寺は七山からの分離独立を果たし、「日蓮宗富士派」と公称するに至ったのです。
 その後、総本山第五十七世日正上人の代の明治四十五年六月七日には、政府の認可をもって、富士派は宗名を「日蓮正宗」と改めました。
 同年(大正元年)十月二十一日には、「日蓮正宗公称奉告法要」が御法主日正上人猊下の大導師、御隠尊日布上人・日応上人両猊下の御出仕のもと、厳粛に奉修されています。
 こうして、日胤上人が『大石寺一本寺独立願』を提出されて以来、実に四十年の歳月と、時の御法主上人猊下をはじめとする僧俗の尽力によって、大石寺は分離独立・宗名公称を成し遂げることができたのです。

日布上人の御著述
久遠元初の釈尊

 夫れ宗祖日蓮大聖人は、上行菩薩の御再誕なること、御妙判に於ても、経文神力品に於ても争ひなきことなるも、それは佐渡御流罪の前の法門なり。御書三沢抄に曰く、「佐渡へ流されし已前の法門は、たゞ仏の爾前経と思召せ云々」と。
 されば大聖人が、建長五年四月二十八日、旭日に向て、南無妙法蓮華経と、初めて宗旨御建立遊ばされ、種々の大難に逢はせ給ひ、二度の御流罪、三度の御国諫、皆法華経を身に読み給ひしことにて、斯く御身を鍛へ、心性を磨き、末法無作の本仏と顕はれ給ひしなり。法華経を身にも読み、口にも読み、心にも読み給ふに非ずんば、無作の本仏、法華経の行者といふものにあらず。
 それ菩薩は仏界へ上り給はず。若九界の菩薩を信仰して、我等仏界ならんと願はゞ、上行よりはるか上界の仏にならんとするものなれば、迚も及ばぬ願ひなるべし。依て当門流に於て之をたゞし、御経と御書とを調ぶるに、文上と文底と云ふものありて、只一応の処は、上行菩薩の再誕、これは宗祖佐渡已前の文上にして、全く文底の大事は、久遠の釈尊にてましますなりと立つるなり。
 問て云く、上行菩薩は文上にては九界の菩薩にして、文底にては釈尊なりとの経文是れありや如何。答て云く、是れあり。今其の経を引て衆盲を聞かしめんと欲す。寿量品に曰く、「我本行菩薩道」と。又曰く、「惑説己身・惑説他身」と。ある時は己の身たる釈尊とあらはれ、ある時は、他の菩薩ともなりて法を説くといへり。されば此つぎなる「譬如良医」の譬えを御説き遊ばされて、此心を明かに遊ばし、「我れが使に我れが来にけり」にして、釈尊神通力を以て、御身の上より、上行と云ふ菩薩界を生み出して、末法へ出現せしむると云ふは、仏になる時は、分身の仏とて、いくらも心より思ふだけの仏を世に出して法を説き皆教化して後、文一仏にかへり給ふなり。天台の文句に曰く、「一月の万影孰か能く思量せん」云々。此の心は一月とは、釈尊一仏の光明なり、その一仏より万の仏を出して、水影にうつれども、皆是れ釈尊一月の神通力のなす処と思量せると、釈し給ふにて心得べし。
 又、自我偈に曰く、「余国有衆生・恭敬信楽者・我復於彼中・為説無上法」云々。余国の日本国に此の三大秘法たる、此の上もなき道を信行するものあるときは、此釈尊がその国へ生れて、無上の清浄の大法を説きて、教化せんと説き給へり。斯く現に経文にありて、当門流に於て、こしらへし法門にあらず。依て大信者に非ずんば、此法門許すべからず。問ふ其旨御書に証拠ありや如何。答へて曰く、日向記(此日向記と云ふは宗祖大聖人の御説法を、聞書き遊ばす御書なり。依て又御講聞書と云ふ)に曰く、「日本国は、霊鷲山にして、日蓮は釈迦如来なりと意得可し」云々。是れ又経文と云ひ、御書と云ひ、日蓮大聖人は久遠元初の釈尊にてをはす事顕然なり。
(大日蓮 大正八年五月号より)