大 白 法令和3年5月1日付
  
          総本山第56世 日應上人の御事蹟
 
 第百回遠忌を迎えるに当たって
 
  総本山第五十六世日應上人の第百回遠忌法要が六月十四日・十五日、総本山において奉修されるのに当たり、日應上人の御事蹟を掲載します。
 「東都布教なくして宗門の発展はない」と、御自ら東京での弘教に身を投じられ、政府の宗教統制下のもと分離独立を果たされるなど、正法を厳護し、折伏弘通に尽力された尊い御姿を学び、一層の折伏精進を誓いましょう。

 日應上人は、嘉永元(一八四八)年十一月十五日、甲斐国東山梨郡上神内川村(現在の山梨市)の名取亦兵衛の三男として誕生し、俗名を「直次郎」と称されました。
 安政五(一八五八)年五月十三日、十一歳にして、総本山第五十二世日霑上人を御師範として出家得度し、道号を「慈含」と称されました。後に阿闍梨号を「甲斐阿闍梨」「大石阿闍梨」、院号を「法道院」と号されています。
 以後、文久三(一八六三)年までの六年間、日霑上人のもとで宗乗(本宗の教学)・余乗(天台等の教学)を学ばれ、同年四月には上総の細草檀林(現在の千葉県大網白里市・遠霑寺)に入られ天台三大部等を学ばれました。
 檀林を退出され後は、明治二年十二月(一八七〇年一月)、陸奥三春の法華寺(福島県三春町)に十七代住職として赴任され、さらに同十四(一八八一)年、三十四歳の時、仙台の仏眼寺三十二代住職に就任されています。
 東北御在住は十七年に及び、その間、多くの人々が帰依し、明治十七年には福島県信夫郡腰浜村(現在の福島市中心部)に広布寺が建立されました。

僧俗護法会議

 佛眼寺在職中の明治十六年、総本山において僧俗護法会議が開かれました。当時三十六歳であった日應上人は、この護法会議において議長に抜擢され、現在の宗務院及び宗務支院に当たる宗務局・宗務支局の設置、布教伝道の人材を育成するための説教講究場の設立など、宗門発展のための施策を講じられました。
 明治十七年三月、日應上人は大石寺宗務局の初代宗務局長に就任し、多事多難な宗門の難局にあって奮闘されました。またこの頃、総本山塔中の了性坊・寂日坊住職を歴任されています。同十九年に宗務局は法務局と改称し、日應上人が初代法務局長に任命されています。

御登座、大石寺本末の一宗独立

 明治十八年五月に準能化、六月に能化に昇進せられ、翌年十月には総本山三十八代大学頚に就任、さらに同年十二月には東京常泉寺の三十代住職となられました。
 そして、明治二十二年五月二十一日、総本山第五十五世日布上人から唯授一人の血脈を相承され、第五十六世の御法主上人となられました。代替法要直後の同年七月には、大石寺布教会総則を定め、八月、御自身が布教会会長に就任されています。
 布教会の機関紙として『布教会報』(のち『法王』と改題)を発刊、また布教委員の登用試験を実施されるなど、文書布教・言論布教による折伏を大いに推進されました。
 さらに明治二十四年頃から、たびたび全国各地の御巡教に赴かれ、同三十五年四月には、総本山御影堂の大営繕を行われました。
 また、明治初年に政府が行った寺領の没収により起こった大石寺の土地問題が、明治三十九年九月の御料林払い下げ許可という形で解決を見ることができました。

分離独立への尽力

 日應上人が御当職であった明治時代は、政府の命令により仏教各派の統合が強いられるという苦難の時代で、大石寺は、明治九年二月、北山本門寺・京都要法寺・保田妙本寺等と共に興門派(日興上人の門流)として括られ、興門八山の一つに位置づけられました。
 総本山第五十四世日胤上人以来、宗門は興門派からの分離独立のために奔走し、日應上人もまた宗務局長時代の明治十七年頃から、他の七山・政府に意見書を提出するなど尽力されました。
 明治二十九年六月、日應上人は内務大臣宛の「大石寺分離独立請願書」を興門派管長・芦名日善(北山本門寺 管長職は興門八山による輪番制)に提出、翌年にも内務省に対して「大石寺分離独立追願書」を提出され、さらに同三十二年五月に代理を派遣して、「分離独立追願書」を提出されています。
 翌年一月、日應上人は新宗制寺法を制定するための評議会を設け、八月二十一日、「日蓮宗富士派宗制寺法」の許可を、独立の「認可願」と共に内務大臣宛に提出されました。一カ月後の九月十八日、ついに内務省の認可が下り、ここに大石寺は積年の悲願であった分離独立を果たし、「日蓮宗富士派」と公称するに至りました。
 その後、総本山第五十七世日正上人代の明治四十五年六月七日、宗名を「日蓮正宗」と改めました。

法道会設立と.東都弘教

 日應上人は、明治三十一年十二月十二日、東都弘教の根本道場として、本郷西片町(現在の東京都文京区)に法道院(のち法道会。現在の豊葛区・法道院)を創立されました。この頃の日應上人の御様子について、総本山第五十九世日亨上人は、
「誰の力も借りないでただ一人で新しい信者を、新規の教田を開拓されようとした。それほど帝都の弘教には心血を注がれた。それが法道会の始まりである」(法之道 昭和二十九年七月七日号)
と仰せられ、また法道院三代主管・観妙院日慈上人は、
「(法道院は)信者があってお寺ができたのではなく、日應上人がおられてお寺ができて、次に信者ができたわけであります」(同 昭和四十三年一月十五日号)
と記されています。

 日應上人は「東京での布教を盛んにしなければ宗門の発展はない」との御意志から、御当職の御身にあって、単身、東都弘教に身を投じられました。
 明治四十一年十一月十日に第五十七世日正上人に法を付嘱され、御隠尊上人となられました。その後直ちに上京し、深川法道会(法道院は明治三十五年十一月二十日、深川東元町・現在の江東区に本建築がなり、第二十二号教会所として認可された)を本拠として、これまで以上に折伏弘教に尽瘁されました。
 なお御隠退の前後を通して、冊子『法乃道』や御著述等による文書布教、公共の場における演説会・街頭布教等の言論布教を行われており、大法弘通の法鼓を打ち鳴らされる日々であったことが拝されます。
 大正五(一九一六年二月、日應上人は麻布区我善坊町(現在の港区内)に「日蓮正宗弘教所潜竜閣」を設立開所し、深川の法道会から、この潜竜閣に移られました。翌年四月には、ここで「日蓮正宗会」を創立されています。
 大正九年十月から常泉寺にて静養されていた日應上人は、翌年三月、常泉寺信徒の寄進によって神奈川県東神奈川鳥越(横浜市神奈川区鳥越)留錫されることになりました。ここは「神奈川教会所」と命名され、三月二十五日(旧暦二月十六日)、入仏式が奉修されました。大正十年は今からちょうど百年前の大聖人御聖誕七百年の佳節に当たり、この式典は「宗祖御降誕七百年紀念報恩会」を兼ねたものとなりました。(昭和二十年の戦災後、神奈川教会所は解散し横浜教会所と合併。横浜教会所は現在の横浜市南区・久遠寺)
 宗門においては、御聖誕七百年記念事業として、日應上人著『一代聖教諸宗一覧』(大正四年発刊)を再刊し、これを内閣諸侯・議会議員・図書館・新聞社など、広く世間に向けて頒布しています。さらに都内各所において演説会が催され、小田原・名古屋・大阪等、各地の寺院・教会所においても、記念法会と講演会が行われました。

御遷化

 日應上人は、大正十一年六月十一日、東京品川の妙光寺における日蓮正宗会の総会に御臨席され、
「世のあらゆる邪教を撲滅して此の正義を宣伝し広宣流布の大願を成就せねばならぬ(中略)予老齢如何んともするに由なし。諸子よろしく奮励努力以て聖祖の御金言に背くなからん事を期せよ」
と訓諭されたと伝えられています。
 そして、その四日後の六月十五日、神奈川教会において御弟子方の読経の中、御年七十五歳を一期として、安祥として御遷化されました。
 なお、辞世の句を次のように詠まれています。
「草の葉に置く身は露と消ゆるとも 意は法の華に注がん」
 総本山蓮葉庵の庭園には、御辞世の碑が立てられ、御生涯を通して大法弘通に挺身され、近代宗門の礎を築かれた日應上人の御徳を、今に伝えています。