大 白 法平成29年12月1日付
  
          総本山第55世 日布上人の御事蹟
 
 第百回遠忌を迎えるに当たって
 
  来年三月三日・四日の両日、総本山において第五十五世日布上人の第百回遠忌法要が奉修されます。ついては、日布上人の御事蹟を紹介します。

日布上人の略歴

 日布上人は、字を「泰勤」と称され、また阿闇梨号を「川越阿闇梨」、院号を「広宣院」と号されました。
 天保六(一八三五)年二月五日、武蔵国川越入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)の下山善輔の三男として誕生された日布上人は、同十二年一月十六日、七歳の時に総本山第五十一世日英上人を御師範として、大石寺において出家得度されました。

 嘉永五(一八五二)年四月二十日、十八歳の時に細草檀林(現在の千葉県大網白里市・遠霑寺)に入林され、七年間にわたり、天台三大部等の教学を研鑽されました。
 安政五(一八五八)年二月十六日、二十四歳の時に総本山塔中・了性坊の二十一代住職に任ぜられ、十六年間、住職を勤められています。
 その間、文久二(一八六二)年九月一日には、総本山第五十二世日霑上人より「宜称 川越阿闇梨・浄蓮坊日布」の補任状を賜っています。
 明治六(一八七三)年十二月十二日、三十九歳の時、総本山第五十四世日胤上人より唯授一人の御付嘱を受けられ、第五十五世の御法主となられました。
 日布上人の御代替法要は、当時、明治政府の宗派統合の政策により宗門が多事多難な時期であったため、御当座より五年後の同十一年七月十四日に奉修されています。
 同年十二月五日、北山本門寺の玉野日志から日布上人に問難状が呈されました。内容は総本山第四十八世日量上人著『富士大石寺明細誌』の内容に関するもので、五十項目にわたって疑難を寄せ回答を求めてきたのです。これに対し日布上人は、同月十七日に回答されています。それ以降は、当時御隠尊であられた第五十二世日霑上人が代わって問答され、同十二年の日霑上人の四度目の破折をもって終結しました。これを「霑志問答」または「両山問答」といいます。
 同十四年五月十六日、日布上人は四十七歳の時、興門派の管長に就任されています。また、同年十月二日から八日の七日間にわたり、日布上人の大導師のもと、宗祖日蓮大聖人第六百遠忌、第二祖日興上人・第三祖日目上人第五百五十遠忌が総本山大石寺において厳粛かつ盛大に奉修されています。
 翌十五年七月、明治政府の通達により興門派管長の派内巡回説教が定められると、日布上人はこれに抗議する形で、同月のうちに大石寺の分離独立を内務省に出願されました。御開山日興上人以来、謗法厳誠の精神を貫く大石寺にとって、他派との合同や派内巡教などは認められないことであり、日布上人は事態を打開すべく、御心を砕かれました。
 同十八年六月十五日、日布上人は五十一歳で御退座され、石之坊の隣に富士見庵を再建されて住まわれました。その後、大坊へは日霑上人が再々住なされました。以来、日布上人は弟子の薫陶と信徒の教化育成に努められています。
 同二十二年五月二十一日、五十五歳の時、総本山第五十六世日応上人に血脈を相承されました。
 同二十五年四月一日、日布上人は弟子の富士本智境(日奘)師・太田広伯師を随行として総本山を出発され、東北地方を御巡教されています。
 そして、御退座より三十四年後の大正八(一九一九)年三月四日午後六時、日布上人は多くの御弟子方に見守られ、読経・唱題の中、総本山富士見庵において安祥として御遷化せられました。御年八十五歳でした。

日布上人御辞世の句
 法のため
 おしからざりし
 我が身なる
 つゆときへても
 広布いのらん

大石寺独立への軌跡
 日布上人が御当職であられた明治時代は、政府の方針により、仏教各派の統合が強いられるという激動の時代でした。
 明治五(一八七二)年六月、政府は一宗一管長制を定め、十月には天台宗・真言宗・浄土宗・日蓮宗等の各宗が公認されました。すなわち、日蓮各派は日蓮宗という名のもとに、一宗として統合されることになったのです。
 時の御法主であられた総本山第五十四世日胤上人は、事態を鑑みられ、同年六月一日、教部省に対し『大石寺一本寺独立願』を提出します。また、日胤上人は同様の願書を、翌年一月と七月にも立て続けに提出され、大石寺の独立を嘆願されました。
 その後、各派からの不満が相次いだためか、同七年三月には一宗一管長制は廃止され、日蓮宗は一致派・勝劣派のそれぞれに管長を置くことが認可されました。
 さらに同九年二月に、勝劣派は、興門派・妙満寺派・八品派・本成寺派・本隆寺派の五派に分かれ、それぞれに管長が置かれました。このうち大石寺は、北山本門寺・京都要法寺・保田妙本寺等と共に興門派(日興上人の門流)として括られ、興門八山の一つに位置づけられることとなりました。
 同十五年七月、興門派管長の派内巡回説教の令達が出されると、日布上人はすぐさまこれに抗議する形で、大石寺の分離独立を内務省に願い出られました。
 日布上人は同十七年にも、大石寺を興門派総本寺とするための請願、また管長撰定のための意見書を提出されています。またこの頃同時に、大石慈含師(総本山第五十六世日応上人)・富士本智境師らを代理として、大石寺の分離独立のため、たびたび働きかけをなされました。
 同二十二年、大石寺では第五十六世の御法主として日応上人が御登座されました。
 日応上人は同二十九年六月十七日、内務大臣宛の『大石寺分離独立請願書』を興門派管長・芦名日善(北山本門寺)に提出されました。これに対し日善は、興門八山内の多数派の意見としてこれを容認しますが、結局政府がこれを認可することはありませんでした。
 同三十二年二月十五日、興門派は宗名を本門宗と改めます。
 同じ年の五月十一日、日応上人代理・佐藤慈一師によって『分離独立追願書』が提出されると、内務省はこれに取り合い、本門宗管長・大井日住(伊豆実成寺・現在は日蓮宗)に対し、宗旨・血脈・寺格などについての答申を求めました。
 そこで日住は各山の回答を取りまとめて答申したところ、内務省よりさらに、「分離後の宗制寺法」・「興学布教」・「合同と分離の利害得失」の三項目について答申するならば、分離独立の認可を考慮する旨の返答がありました。
 これを受けて日応上人は翌三十三年一月、土屋慈観師(総本山第五十八世日柱上人)・堀慈琳師(総本山第五十九世日亨上人)らを召集し、新宗制寺法制定のための評議会を設けられます。
 準備の整った八月二十一日、日応上人は独立の『認可願』と共に『日蓮宗富士派宗制寺法』の許可を内務大臣宛に願い出られました。
 一カ月後の明治三十三年九月十八日、ついに内務省より認可が下り、ここに大石寺は七山からの分離独立を果たし、「日蓮宗富士派」と公称するに至ったのです。
 その後、総本山第五十七世日正上人の代の明治四十五年六月七日には、政府の認可をもって、富士派は宗名を「日蓮正宗」と改めました。
 同年(大正元年)十月二十一日には、「日蓮正宗公称奉告法要」が御法主日正上人猊下の大導師、御隠尊日布上人・日応上人両猊下の御出仕のもと、厳粛に奉修されています。
 こうして、日胤上人が『大石寺一本寺独立願』を提出されて以来、実に四十年の歳月と、時の御法主上人猊下をはじめとする僧俗の尽力によって、大石寺は分離独立・宗名公称を成し遂げることができたのです。

日布上人の御著述
久遠元初の釈尊

 夫れ宗祖日蓮大聖人は、上行菩薩の御再誕なること、御妙判に於ても、経文神力品に於ても争ひなきことなるも、それは佐渡御流罪の前の法門なり。御書三沢抄に曰く、「佐渡へ流されし已前の法門は、たゞ仏の爾前経と思召せ云々」と。
 されば大聖人が、建長五年四月二十八日、旭日に向て、南無妙法蓮華経と、初めて宗旨御建立遊ばされ、種々の大難に逢はせ給ひ、二度の御流罪、三度の御国諫、皆法華経を身に読み給ひしことにて、斯く御身を鍛へ、心性を磨き、末法無作の本仏と顕はれ給ひしなり。法華経を身にも読み、口にも読み、心にも読み給ふに非ずんば、無作の本仏、法華経の行者といふものにあらず。
 それ菩薩は仏界へ上り給はず。若九界の菩薩を信仰して、我等仏界ならんと願はゞ、上行よりはるか上界の仏にならんとするものなれば、迚も及ばぬ願ひなるべし。依て当門流に於て之をたゞし、御経と御書とを調ぶるに、文上と文底と云ふものありて、只一応の処は、上行菩薩の再誕、これは宗祖佐渡已前の文上にして、全く文底の大事は、久遠の釈尊にてましますなりと立つるなり。
 問て云く、上行菩薩は文上にては九界の菩薩にして、文底にては釈尊なりとの経文是れありや如何。答て云く、是れあり。今其の経を引て衆盲を聞かしめんと欲す。寿量品に曰く、「我本行菩薩道」と。又曰く、「惑説己身・惑説他身」と。ある時は己の身たる釈尊とあらはれ、ある時は、他の菩薩ともなりて法を説くといへり。されば此つぎなる「譬如良医」の譬えを御説き遊ばされて、此心を明かに遊ばし、「我れが使に我れが来にけり」にして、釈尊神通力を以て、御身の上より、上行と云ふ菩薩界を生み出して、末法へ出現せしむると云ふは、仏になる時は、分身の仏とて、いくらも心より思ふだけの仏を世に出して法を説き皆教化して後、文一仏にかへり給ふなり。天台の文句に曰く、「一月の万影孰か能く思量せん」云々。此の心は一月とは、釈尊一仏の光明なり、その一仏より万の仏を出して、水影にうつれども、皆是れ釈尊一月の神通力のなす処と思量せると、釈し給ふにて心得べし。
 又、自我偈に曰く、「余国有衆生・恭敬信楽者・我復於彼中・為説無上法」云々。余国の日本国に此の三大秘法たる、此の上もなき道を信行するものあるときは、此釈尊がその国へ生れて、無上の清浄の大法を説きて、教化せんと説き給へり。斯く現に経文にありて、当門流に於て、こしらへし法門にあらず。依て大信者に非ずんば、此法門許すべからず。問ふ其旨御書に証拠ありや如何。答へて曰く、日向記(此日向記と云ふは宗祖大聖人の御説法を、聞書き遊ばす御書なり。依て又御講聞書と云ふ)に曰く、「日本国は、霊鷲山にして、日蓮は釈迦如来なりと意得可し」云々。是れ又経文と云ひ、御書と云ひ、日蓮大聖人は久遠元初の釈尊にてをはす事顕然なり。
(大日蓮 大正八年五月号より)