大 白 法平成27年7月1日付
  
          総本山第47世 日珠上人の御事蹟

第二百回遠忌を迎えるに当たって

 
  本年九月二十一日・二十二日の両日、総本山において第四十七世日珠上人の第二百回遠忌法要が奉修されるに当たり、日珠上人の御事蹟について掲載します。
 日珠上人は、江戸時代、永年にわたる法難に耐え、また「抜け参り」をして総本山に登山参詣するなど、純粋な信仰を貫いた金沢法華講衆の出身であることから、金沢法難についても併せて紹介します。

日珠上人の御略歴

 日珠上人の御事蹟は、総本山第四十八世日量上人が著わされた『続家中抄』の「日珠伝」に概略紹介されています。
 『続家中抄』によれば、日珠上人は、字を「覚英」と称され、日号も初めは「日珍」と称されました。また阿闍梨号を「覚授阿闍梨」、院号を「浄明院」と号されました。
 日珠上人は、明和六(一七六九)年、加賀国(石川県)金沢藩、小幡式部の家臣小川弥右衛門の三男として誕生されました。父の法号は貞性日浄、母は妙貞日亮です。日珠上人は、奇しくも金沢法華講衆の信仰を永年にわたって支えてこられた総本山第三十一世日因上人の御遷化の年に御生まれになっています。
 安永六(一七七七)年春、九歳の時に、金沢から河崎寿清が同道して総本山大石寺に登山参詣し、総本山第三十七世日
上人を師として出家得度されました。
 天明元(一七八一)年九月十三日、父上が死去され、二年後の天明三年七月十一日、母上が死去されています。
 翌天明四年春、十六歳の時、細草檀林に入檀され、活如師(後の総本山第四十三世日相上人)に師事し、教学の研鑚に精励されました。
 寛政八(一七九六)年の夏、細草檀林の新小路から出火し、三小路(学寮二十余区)が灰燼に帰しましたが、この時、伴頭であった総本山第四十四世日宣上人が伴頭寮を再建され、また同時期に在檀されていた総本山第四十六世日調上人が学寮の中小路紅葉寮を、日珠上人が中小路文貞寮を再建されています。
 文化元(一八〇四)年春、二十七年の蛍雪を経て、細草檀林第七十九代の化主となり、同年秋、退檀して江戸小梅常泉等(墨田区)の塔中本行坊に住されます。
 二年後の文化三年十一月、常泉寺に移り、第十九代住職として足掛け四年在住され、文化六年の夏、第二十九代の学頚となり大石寺蓮蔵坊に入寮されました。
 そして、文化十一年四月十一日、四十六歳の時、方丈(大坊)に入られ、日調上人より唯授一人の御付嘱を受け第四十七世の御法主となられました。
 しかしながら、御在職わずかにして体調を崩され、前御法主の日調上人に再住を請われて、翌文化十二年八月十二日、寿命坊に閑居されました。療養されること一年、文化十三年九月二十二日の午前六時半頃、四十八歳をもって御遷化されました。
 日珠上人の御著述としては、『説法五座』(下之坊ノ事・盂蘭盆会・陀羅尼品・宗祖祥月命日講・彼岸供養会)が、総本山に蔵されており、この他、品川区の妙光寺には『説法記』(総本山第五十一世日英上人所持本)、また金沢の妙喜寺には『彼岸御説法一座』(写本)、さらに京都の住本寺には『浄明院師御説法御扣記三座』がそれぞれ蔵されています。

金沢法難について

 加賀・能登・越中の三カ国を領有した金沢藩では、第五代藩主・前田綱紀の勧めにより、江戸屋敷の家臣が常在寺で日精上人(後の総本山第十七世御法主)の説法を聴聞したことにより、家臣の中に大石寺の信徒が誕生しました。
 その後、大石寺に帰依する者は領内にも弘まっていき、享保三(一七一八)年頃には福原式治(次郎左衛門)をはじめ、純真な信仰を貫く信徒が続々と現われました。しかし、享保八年に、藩主が第六代の吉徳になると、藩は幕府の厳しい宗教政策に従って、領内に末寺がない大石寺の信仰は寺請制度に抵触するとして、布教を取り締まるようになりました。
 そして、享保十一年四月に、加賀の法華宗慈雲寺の僧・了妙が富士門流に改宗したことにより、慈雲寺が寺社奉行に訴えたため、大石寺の信仰は禁止となり、内得信仰さえも差し止められました。この頃、藩内の大石寺信徒は数千人に達していたと言われています。
 翌享保十二年三月、総本山第二十八世日詳上人は金沢藩江戸屋敷に対し、領内の寺院建立と大石寺の信仰の解禁を願い出られましたが却下され、その後、歴代上人が藩主の交代のたびに末寺建立願いを提出しましたが、いずれも藩規により受諾されませんでした。
 しかし、このような状況の中でも弘教は続けられ、十数の講中が生まれるほどになりました。これに対して藩では、元文五(一七四〇)年、寛保二(一七四二)年、明和七(一七七〇)年と、数度にわたって大石寺の信仰の禁止令を出し、これに背いた理由で大勢の人々が、入牢・閉戸などの刑に処されました。その中で、天明六(一七八六)年四月に、大石寺信徒の足軽小頭の竹内八右衛門が牢死しました。
 これらの迫害は、明治時代を迎えるまでの約百五十年間の長期にわたりましたが、金沢信徒たちは「抜け参り」を行うなど、根強い信仰を続けました。この法華講の中より、日琫上人、日珠上人が出られています。そして、明治十二(一八七九)年、総本山第五十二世日霑上人により金沢の地に妙喜寺が建立され、ここに金沢信徒の悲願は成就したのです。

「抜け参り」について

 金沢法華講衆の強盛な求道心を示す逸話として、二つの「抜け参り」が伝えられています。
 一つは、藩主が参勤交代の途中、東海道吉原(富士市)付近で宿泊した時、金沢信徒の青年武士たちは、夜中、宿を抜け出し、大石寺まで約十八キロメートルの道のりを走って参詣し、大御本尊が御安置されていた御宝蔵の前の石畳に座って唱題し、また走って宿に戻ったというものです。
 もう一つは、道中手形を出してもらえない金沢の信徒たちは、大石寺に参詣したい一心から領内を抜け出し、互いに励まし合いながら山や谷を踏み越え、十数日をかけて大石寺への参詣を果たしたというものです。
 当時、金沢の信徒がたいへんな苦労をして総本山大石寺に登山参詣し、その功徳と歓書をもって信仰に励み、法難を乗り越えてきた姿が偲ばれます。