大 白 法平成27年11月16日付
  
          総本山第46世 日調上人の御事蹟
 
 第二百回遠忌を迎えるに当たって
 
  来年一月二十六日・二十七日の両日、総本山において第四十六世日調上人の第二百回遠忌法要が奉修されます。ついては、日調上人の御事蹟について掲載します。

日調上人の御生涯

 日調上人の御事蹟は、総本山第四十八世日量上人が著わされた『続家中抄』の「日調伝」に概略紹介されています。
 『続家中抄』によれば、日調上人は、字を初めは「賢存」、後に「淳明」と称されました。また阿闇梨号を「後藤阿闍梨」、院号を「持勝院」と号されました。
 日調上人は、明和三(一七六六)年、駿河富士郡下中里村(静岡県富士官市大中里)の邑長・後藤孫兵衛の五男として誕生されました。父の法号は養淳日明、母の法号は妙養日淳です。
 生まれて間もなく、大阪阿闍梨孝真院日善師(細草檀林第五十八代化主)の弟子となることが決められました。しかし、日調上人が三歳になった明和五年十月二十三日、日善師が当時の仙台法難の対応に当たるため下向し、仙台の地で逝去されたことから、後の総本山第三十八世日泰上人を師として出家得度され、その後、細草檀林の活如師(後の総本山第四十三世日相上人)のもとで教学の研鑽に精励されました。
 寛政八(一七九六)年の夏、細草檀林の新小路から出火し、三小路(学寮二十余区)が灰燼に帰しましたが、この時、伴頭であった総本山第四十四世日宣上人が伴頭寮を再建され、日調上人は学寮の中小路紅葉寮を再建されています。
 日々修学切磋し、年を追うごとにその御徳を積まれ、享和二(一八〇二)年春、三十七歳の時、細草檀林第七十八代の化主となられました。


 同年、退檀して総本山大石寺に登り、久成坊の住職となられ、在坊五年目の文化三(一八〇六)年夏、江戸下谷(台東区)の常在寺に移り、第十四代の住職となられました。
 文化五年五月八日、総本山第四十五世日礼上人が御遷化されたことから、この年の秋、第二十八代の学頭となり、大石寺蓮蔵坊(学寮)に入られました。
 そして、同年九月二十四日、方丈(大坊)に入られ、四十三歳の時、総本山第四十四世日宣上人より唯授一人の御付嘱を受けられ、総本山第四十六世の御法主となられました。
 御登座後は、総本山の諸堂宇を修理され、在位六年の文化十一年四月十一日、四十九歳の時、総本山第四十七世日珠上人に血脈相承され、塔中石之坊に閑居されました。
 しかし、翌文化十二年八月十六日、日珠上人が在職わずかにして体調を崩され寿命坊へ移られたため、日珠上人の請いにより再住されました。
 そして、文化十四年一月二十七日、五十二歳をもって御遷化されました。

御著述
 日調上人の御著述としては、『信心得意』、『生御影之事』が総本山に蔵されており、この他、東京都品川区の妙光寺には文化九(一八一二)年一月の加州金沢信行中宛の『御示』(消息)、また金沢市の妙喜寺には文化三年五月十三日・同年七月十七日・同月十八日の『説法』(写本)、京都の住本寺には『日調御上人師御扣記二月』(興師会講本)、『日調御上人師御扣記』、さらに静岡県富士宮市狩宿の井出家には慈存智丈師(総本山第五十世日誠上人)宛の『消息』三通がそれぞれ蔵されています。