大 白 法令和2年10月16日付
  
          総本山第44世 日宣上人の御事蹟
 
 第二百回遠忌を迎えるに当たって
 
  十二月七日・八日の両日、総本山において総本山第四十四世日宣上人の第二百回遠忌法要が奉修されるに当たり、日宣上人の御事蹟について掲載します。

日宣上人の略歴

 総本山第四十四世日宣上人の御事蹟については、第四十八世日量上人の著された『続家中抄』の「日宣伝」に概略が記されています。
 日宣上人は宝暦十(一七六〇)年、江戸に出生されました。若くして総本山第三十六世日堅上人を師として出家得度し、道号を「隆順」、後に院号を「真成院」と称されました。
 その後、安永九(一七八〇)年頃には、御隠尊となられた御師範日堅上人に随従して、富士見庵において御奉公されています。
 また、日宣上人は上総の細草檀林(現在の千葉県大網白里市)に進み、教学の研鑚に努められました。寛政八(一七九六)年、檀林の学舎が焼失した際には、日宣上人によって伴頭寮が再建されたと伝えられています。(※伴頭は檀林において能化に次ぐ立場。『法華玄義』の講義を務め、また檀林内の事務を取り仕切った)
 そして、二年後の寛政十年、三十九歳の時、蛍雪の功なって、細草檀林の七十七代化主(能化)に就任されました。
 その後、日宣上人は同年秋頃に細草を退檀し、江戸中ノ郷(現在の東京都墨田区)の妙縁寺の住職となられました。在職五年の間に、日宣上人は同寺の客殿・御宝蔵の改築をなされました。
 また、日宣上人は妙縁寺住職在任中の寛政十二年、四十一歳の時、総本山二十六代の学頭となられています。当時、学頭寮である総本山蓮蔵坊が修復中であったためか、日宣上人はそのまま妙縁寺に住されました。
 以後、日宣上人は学頭として、妙縁寺のみならず、小梅常泉寺(東京都墨田区)・下谷常在寺(現在は東京都豊島区にある常在寺)の江戸三力寺を回り、春秋の彼岸会・盂蘭盆会・立宗会・月例の御講等に際して、御説法をされたことが記録に残されています。
 日宣上人は、主に『撰時抄』を御説法されており、講本には『撰時随寛記』(総本山第二十六世日寛上人の『撰時抄愚記』に沿って『撰時抄』の講義をされたことに由来する)との題名が付され、仁・義・礼・智・信(上・下)の六冊にまとめられています。
 『撰時随寛記』には、当日の参詣信徒数・天候なども克明に記録されており、当時の様子をうかがい知ることができます。また、総本山の学頭寮(蓮蔵坊)修復の勧募をなされた様子も拝されます。
 学頭時代の日宣上人は、『撰時抄』のほか、寿量品自我偈、両品(方便品・寿量品)読誦の意義、数珠の意義等について御説法されており、それらの講本が総本山等に伝えられています。
 享和三(一八〇三)年、日宣上人は妙縁寺を辞され、五月十二日、修復なった総本山蓮蔵坊に入られました。
 そして同年十月、日宣上人御年四十四歳の時、総本山第四十三世日相上人より御付嘱を受け、総本山第四十四世の御法主上人となられました。
 御在職五年の後、文化四(一八〇七)年八月、日宣上人は法を第四十五世日礼上人に付し、総本山内の富士見庵に隠居されました。
 その後、同十一年六月、日宣上人は小梅の常泉寺に移り、再び江戸三力寺における御説法を開始されました。
 この時の御説法も同じく『撰時抄』で、講本は『撰時随寛愚宣再読』と名付けられています。
 日宣上人の常泉寺在住は八年に及び、その後、文政四(一八二一)年秋頃に、江戸から総本山に帰山されました。
 そして、翌文政五年一月七日、日宣上人は総本山において、六十三歳をもって安祥として御遷化あそばされました。

 『撰時抄』初回の御説法(享和二年四月十六日)の冒頭

四月十六日小梅参詣百九十七人御書撰時抄文字読
 さて、先づ日相尊前師(総本山第四十三世日相上人)にも御在府中御機嫌能く、御帰山遊ばされ、一統に大慶至極に存じまする。御発駕の砌は、何れも皆御深節に遠路のいといなく、品川表迄御見送り、賑々敷く御見立て申上げ、他の外見も宜敷く各々御深信の段、相師にも甚だ御満悦に思し召され、随て三ケ寺一同に大悦至極に存ずる事でござる。
 扨今日は当寺(常泉寺)に於いて毎月相勤むる処の月並の法会、各々相替らず御参詣、御寄特千万に存じまする。又当月の二十八日宗旨御建立に付き、御報恩の為、例年当寺に於いて説法を相勤むる。御苦労ながら皆々又参詣を待入ます。
 扨、先頃中は世界一同に時花風(はやりかぜ)で皆難儀の躰に見へまして御座るが、此程は夫も余程と遠ざかり、為指(さして)異変なく世界静謐となり、御互いに喜びまする。先頃も申す如く、加様な病難の時花(はやり)と云うも則ち時のしから令むる処、時節と云う者でござる。依て時の花と書いてハヤルと読ませる。是則ち物の時花ると云うは、其の時の至りと云ござる。
 扨、又八セン(※八尊。降雨であることが多い日をいう)の中ちは雨がふる者と人々心得て居る。案の如く先月十二日、相師御発駕の日より八センの入りだ。其の日は晴天で御座ったが、其の翌日より昨日に至る迄、毎日天気が思わしうない。是れ則ち其の年の一年の内の時節と云う者であろう。世界の事すら如此だ。増して况や凡夫が変じて佛と成る処の佛道を執行するには、是非其の時節に相應した処の法で無げればならぬ。其の事を知ら令めんと思し召して日蓮大聖人撰時抄と云う御書判を御制作遊ばされた。
 依て今夕より及ばず乍ら右御書判の文字読を致し、本山の先哲日寛上人師の仰せ置かるる趣に便って、漸々に申し聞かせるで御座ろう。今夕より申し入る処の法門、若し各々の耳にも留まらぬ様な詰らぬ事を申したならば、夫は某が行き届かざる処の不調法、若し又各々の耳に留まり、扨々有難き事よと思し召す事あらば、夫は直ちに日寛上人の仰せぞと信を取りて丁聞頼み入ります。

 この後、日寛上人『撰時抄愚記』に沿ってなされた講義が記録されている